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大モンゴル国の衰退とは わかりやすい世界史用語2076
著作名: ピアソラ
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大モンゴル国の衰退とは

13世紀初頭、チンギス=ハンの指導の下でモンゴルの草原から出現したモンゴル帝国は、人類史上最大の陸続きの帝国を築き上げました。その版図は東は朝鮮半島から西は東ヨーロッパまで、北はシベリアから南は南シナ海まで広がり、多様な文化、宗教、民族を内包する巨大な国家体制を構築しました。しかし、その驚異的な拡大と繁栄の時代は、14世紀に入る頃には陰りを見せ始め、やがて避けられない衰退と分裂の過程をたどることになります。モンゴル帝国の衰退は、単一の出来事によって引き起こされたのではなく、後継者問題、帝国の過剰な拡大に伴う統治の困難さ、被征服民との文化的な同化、そしてペスト(黒死病)の大流行といった、複雑に絡み合った複数の要因が長期にわたって作用した結果でした。



帝国の分裂の始まり:後継者問題と内戦

モンゴル帝国の衰退の兆候は、その最盛期においてすでに見え隠れしていました。特に深刻だったのは、帝国の統一を揺るがす後継者問題でした。チンギス=ハンは生前、三男のオゴダイを後継者に指名し、他の息子たちにも帝国を分割したウルス(所領)を与えました。この分割統治の仕組みは、当初は帝国全体の協力体制を維持するために機能しましたが、世代を重ねるごとに各ウルスの自立性を高め、中央からの統制を弱める結果につながりました。
決定的な転機となったのは、1259年の第4代皇帝モンケの死でした。モンケは後継者を指名しないまま、南宋遠征の陣中で病死しました。彼の死後、帝国の後継者の座を巡って、モンケの弟であるクビライとアリクブケの間で激しい内戦(トルイ家内戦)が勃発しました。クビライは中国方面の軍を率い、漢地の資源を背景に勢力を拡大していましたが、モンゴル高原の伝統的な首都カラコルムにいたアリクブケは、モンゴルの保守派貴族の支持を得ていました。この内戦は1264年にクビライの勝利に終わりましたが、その代償は大きく、大ハーンの権威は著しく損なわれました。
さらに、この内戦と並行して、帝国各地で他の王族間の対立も激化しました。キプチャク=ハン国のベルケとイルハン朝のフレグの間で、アゼルバイジャン地方の領有権やフレグによるバグダッドのカリフ殺害を巡ってベルケ・フレグ戦争が勃発しました。この戦争は、モンゴル帝国の西半分を二分し、互いに消耗させる結果を招きました。また、中央アジアではオゴデイ家のカイドゥがクビライの支配に反旗を翻し、チャガタイ・ウルスを巻き込みながら数十年にわたるカイドゥ・クビライ戦争を引き起こしました。
これらの内戦の結果、13世紀後半には、モンゴル帝国は事実上、中国に本拠を置くクビライの元朝(大ハーン・ウルス)、東ヨーロッパのキプチャク=ハン国(金帳汗国)、イランを中心とするイルハン朝、そして中央アジアのチャガタイ・ハン国の4つの独立した国家(ハン国)へと分裂しました。1304年には一時的な和平が結ばれ、各ハン国は元朝の宗主権を名目上認めましたが、これはかつてのような強固な中央集権体制とは全く異なる、緩やかな連合体に過ぎませんでした。これ以降、各ハン国は独自の利益と目的を追求し、互いに協力することは稀となり、統一されたモンゴル帝国は実質的に消滅したのです。

統治の限界と被征服民との同化

モンゴル帝国が直面したもう一つの根源的な問題は、そのあまりにも広大な領土と、そこに住む多様な人々をいかにして統治するかという課題でした。帝国の版図は、遊牧民が暮らす草原地帯から、高度な文明を持つ農耕定住社会までを含んでおり、それぞれの地域で異なる統治方法が求められました。
モンゴル人は本来、部族単位の社会構造を持つ遊牧民であり、部族を超えた忠誠心を維持することは本質的に困難でした。征服活動が続く間は、共通の敵と戦利品の分配という目的が彼らを結束させていましたが、征服が一段落すると、内部での対立が表面化しやすくなりました。
さらに、征服した定住社会を統治する過程で、モンゴルの支配者層は被征服民の文化や行政制度を取り入れざるを得なくなりました。これは統治の効率化のために必要な措置でしたが、同時にモンゴル人としてのアイデンティティを希薄化させ、伝統的な遊牧生活を重んじる保守派との間に亀裂を生じさせました。
各ハン国における同化のプロセスは、それぞれの地域の文化や宗教に大きく影響されました。

元朝における同化と統治

クビライは、中国全土を支配するために、中国の伝統的な中央集権的な国家統治の枠組みを大いに活用しました。彼は首都をモンゴル高原のカラコルムから大都(現在の北京)に移し、中国風の王朝名である「元」を名乗りました。しかし、モンゴル人の支配者層と漢人の被支配者層との間には、常に緊張関係が存在しました。元朝は人々をモンゴル人、色目人(中央アジア出身者など)、漢人(旧金朝支配下の華北の住民)、南人(旧南宋支配下の江南の住民)の4つの階級に分ける身分制度を導入したと広く考えられていますが、その厳格な運用については議論があります。このような差別的な政策は、漢人の間に不満を蓄積させました。また、クビライの後継者たちは、彼ほどの指導力を発揮できず、宮廷内での権力闘争や陰謀が頻発しました。次第に彼らは統治への関心を失い、軍や民衆から乖離していきました。一方で、中国国外の他のモンゴル人からは、「中国化しすぎている」と見なされ、大ハーンとしての権威を失っていきました。

イルハン朝における同化と統治

ペルシャを支配したイルハン朝では、モンゴル人は高度なペルシャ・イスラム文化に触れることになりました。当初、モンゴル人は伝統的な宗教(テングリ信仰)や仏教、キリスト教ネストリウス派などを信仰していましたが、1295年に第7代君主ガザン・ハンがイスラム教に改宗したことをきっかけに、支配者層の間でイスラム化が急速に進みました。ガザンの改宗は、大多数を占めるイスラム教徒の被支配者との融和を図る上で重要な意味を持ちましたが、それは同時にモンゴル独自の文化がペルシャ文化に吸収されていく過程でもありました。イルハン朝は、ガザンの下で行政改革や経済改革が行われ一時的に安定しましたが、彼の死後は再び後継者問題が深刻化しました。

キプチャク=ハン国における同化と統治

ロシア草原を支配したキプチャク=ハン国では、支配者層であるモンゴル人は、被支配者層の大多数を占めるテュルク系遊牧民(キプチャク人など)と同化していきました。14世紀初頭のウズベク・ハンの治世にイスラム教が国教として採用され、テュルク語が広く話されるようになりました。このように、キプチャク=ハン国は次第にモンゴルというよりもテュルク・イスラム的な国家へと変貌していきました。

チャガタイ=ハン国における同化と統治

中央アジアに位置したチャガタイ=ハン国は、モンゴルの伝統的な遊牧生活様式を最も色濃く残したハン国でした。しかし、その内部では、遊牧を重んじる東部(モグーリスタン)と、都市文化が栄えた西部(マー・ワラー・アンナフル)との間で対立が絶えませんでした。14世紀半ばには、イスラム教への改宗が進み、モンゴル語に代わってチャガタイ・テュルク語が公用語となるなど、ここでもテュルク化とイスラム化が進行しました。
このように、各ハン国がそれぞれの地域の文化や宗教に適応し、同化していく過程は、モンゴル帝国全体としての統一性を失わせ、分裂を決定的なものにしました。かつて世界を席巻したモンゴルの遊牧民としての強靭さや結束力は、定住生活と文化的な同化の中で次第に薄れていったのです。

経済的困難と社会不安

帝国の衰退には、経済的な要因も大きく関わっていました。モンゴル帝国の経済は、当初、征服活動によって得られる戦利品や、被征服民からの貢納に大きく依存していました。しかし、13世紀後半になると、帝国の拡大は限界に達し、大規模な征服戦争は減少しました。これにより、新たな富を獲得する機会が失われ、帝国の財政は次第に圧迫されるようになりました。
元朝では、クビライの治世に、二度にわたる日本遠征の失敗や、ベトナム、ビルマなどへの度重なる遠征が行われましたが、これらの戦争は莫大な費用を要した一方で、得られる利益はほとんどありませんでした。さらに、彼の宮廷の贅沢な運営や大規模な公共事業も財政を悪化させました。これらの費用を賄うために、政府は紙幣(交鈔)を乱発し、それが激しいインフレーションを引き起こしました。重税や腐敗した役人による搾取も相まって、民衆の不満は増大していきました。
イルハン朝でも、経済問題は深刻でした。1294年、ガイハトゥは財政難を打開するために、元朝の制度に倣って紙幣(鈔)を導入しましたが、これは市場の大混乱を招き、わずか数ヶ月で撤回せざるを得ませんでした。支配者層による過酷な税の取り立てや、農業基盤の破壊も経済の衰退に拍車をかけました。
キプチャク=ハン国やチャガタイ=ハン国も、交易路の支配を巡る他のハン国との対立や、内紛によって経済的に疲弊していきました。
こうした経済的な困難に加えて、14世紀半ばには、各地で自然災害が頻発しました。特に元朝の支配下にあった中国では、干ばつ、洪水、そしてそれに伴う飢饉が相次ぎ、民衆の生活は困窮を極めました。政府はこれらの災害に対して有効な対策を講じることができず、民衆の支持を完全に失いました。このような社会不安を背景に、各地で農民反乱が頻発するようになります。

ペスト(黒死病)の壊滅的な影響

モンゴル帝国の衰退を決定づけた要因の一つとして、14世紀半ばにユーラシア大陸全域を襲ったペスト(黒死病)の大流行が挙げられます。このパンデミックは、モンゴル帝国が築き上げた広大な交易ネットワーク「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」によって、期せずして急速に拡大しました。安全が確保されたシルクロードは、商品や文化だけでなく、恐ろしい病原菌をも運んでしまったのです。
ペストの起源は中央アジアの草原地帯にあると考えられており、そこからモンゴル帝国内の交易路を通って東西に広がりました。1330年代には中国で大流行が始まり、人口の激減をもたらしました。その後、ペストは西進し、1346年にはキプチャク=ハン国がクリミア半島のジェノヴァ商人の都市カッファを包囲した際に、モンゴル軍がペストで死亡した兵士の死体を城内に投石機で投げ込んだことが、ヨーロッパへ感染が拡大する一因になったという有名な逸話があります。
ペストは、モンゴル帝国の各ハン国に壊滅的な打撃を与えました。

ペストが各ハン国に与えた影響

元朝は、すでに自然災害や農民反乱で疲弊していましたが、ペストの流行によってさらなる人口減少と社会の混乱に見舞われ、その支配力は致命的に弱体化しました。
イルハン朝では、1335年、イルハン朝最後の有力な君主であったアブー・サイードが、後継者を残さないままペストで病死したとされています。彼の死後、イルハン朝は後継者争いで分裂し、事実上崩壊しました。
キプチャク=ハン国もペストによって甚大な人口減少を経験し、経済的に大きな打撃を受けました。労働力と納税者の喪失は、ハン国の国力を著しく低下させ、1359年からの「大紛乱」と呼ばれる長期にわたる内乱期に突入する原因となりました。
チャガタイ=ハン国もまた、1340年代にペストの流行に見舞われ、すでに内紛で弱体化していた国家の崩壊をさらに加速させました。
ペストによる大規模な人口減少は、各ハン国の軍事力、労働力、そして税収基盤を根底から覆しました。統治機構は麻痺し、社会秩序は崩壊しました。この未曾有の危機は、モンゴル支配の正当性を揺るがし、被支配民の反乱を誘発する土壌を作り出したのです。

各ハン国の終焉

内部分裂、経済的困窮、そしてペストの打撃によって弱体化した各ハン国は、14世紀後半から15世紀にかけて、次々と滅亡の道をたどりました。

イルハン朝の崩壊

イルハン朝は1335年に崩壊しました。アブー・サイードの死後、後継者争いが激化し、帝国はジャライル朝やチョバン朝などの地方政権に分裂しました。イルハン朝の再興の試みは失敗に終わり、その領土は後にティムールによって征服されることになります。

元朝の滅亡

元朝は1368年に滅亡しました。1351年に始まった白蓮教徒を中心とする紅巾の乱は、全国的な規模の反乱へと発展しました。この反乱軍の中から頭角を現した朱元璋が、1368年に南京で明を建国し、大都を攻略しました。最後の皇帝トゴン・テムルはモンゴル高原へ逃れ、元朝は中国における支配を終えました。高原に逃れた元朝の残存勢力は北元としてしばらく存続しましたが、かつての栄光を取り戻すことはありませんでした。

チャガタイ=ハン国の分裂

チャガタイ=ハン国は14世紀半ばに分裂しました。東西に分裂し、事実上崩壊状態に陥りました。その後、この地域はティムール帝国の支配下に入ります。

キプチャク=ハン国の分裂

キプチャク=ハン国は15世紀に分裂しました。14世紀末にティムールの侵攻を受けて大打撃を受けた後、急速に衰退しました。15世紀にはカザン=ハン国、アストラハン=ハン国、クリミア=ハン国、シビル=ハン国などの多数の小ハン国に分裂しました。ロシアの諸公国は徐々にモンゴルの支配(「タタールのくびき」)から脱却し、1480年のウグラ河畔の対峙によってモスクワ大公国が完全に自立しました。キプチャク=ハン国の後継国家の中で最も長く存続したクリミア=ハン国も、1783年にロシア帝国によって併合されました。

モンゴル帝国の衰退は、チンギス=ハンというカリスマ的指導者の死後、避けられなかった後継者問題にその根源がありました。帝国の分割相続システムは、当初の意図とは裏腹に、遠心力を強め、内戦と分裂を招きました。史上類を見ない広大な領土の統治は、遊牧民であるモンゴル人にとって本質的な困難を伴い、被征服民の文化や行政システムを取り入れる過程で、彼ら自身のアイデンティティと結束力は失われていきました。帝国の拡大停止による経済的行き詰まり、支配層の腐敗、そして相次ぐ自然災害は社会不安を増大させました。そこにペストという未曽有のパンデミックが追い打ちをかけ、帝国の社会経済基盤を根底から破壊し、その命運を決定づけました。
13世紀にユーラシア大陸を席巻した巨大な帝国は、その内部に抱えた構造的な矛盾と、外部からの衝撃によって、誕生からわずか1世紀半ほどの間に分裂し、歴史の舞台から姿を消していきました。しかし、その衰退と滅亡の過程は、後の世界の歴史に大きな影響を残しました。元朝の崩壊は中国における漢民族の王朝である明の成立を促し、キプチャク=ハン国の衰退はロシアの台頭を可能にしました。

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