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桶狭間の戦いとは?「豪雨の奇襲」説の今をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)とは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)、尾張に攻め込んだ今川義元を織田信長が討ち取った戦いです。「酒に酔って油断していた今川軍を、豪雨に紛れて奇襲した」という筋書きで知られますが、このストーリーはいま、大きく見直されています。この記事では、戦いの経過と有名な2つの筋書きの現在地を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる桶狭間の戦い」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・「義元は酒に酔っていた」という話はどこから来たのか

・「豪雨の奇襲」はいま、どう見直されているのか

・勝敗を分けたものは何だったのか


1分でわかる桶狭間の戦い


桶狭間の戦いとは、一言でいえば、織田信長の名を天下にとどろかせ、戦国の主役を交代させた一戦です。

永禄3年5月19日、尾張・桶狭間

駿河・遠江・三河を支配する今川義元が尾張に侵攻。織田方の砦が攻撃を受けるなか、信長は本隊で出撃し、桶狭間で休息していた義元の本陣を直接たたきました。義元は太刀を抜いて戦った末に討たれたと記されます。


「酒宴で油断」も「迂回して奇襲」も、いちばん信頼できる記録にはない

信長に仕えた太田牛一が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』に、今川軍の酒宴は出てきません。山中を迂回しての奇襲を広めたのは、江戸時代の『信長記』(小瀬甫庵)です。より信頼性の高い『信長公記』に基づく「正面攻撃説」が、1980年代以降は有力視されています。


主役交代の分岐点

この一戦で今川家は衰退に向かい、今川方として従軍していた松平元康、のちの徳川家康は自立へ。そして信長は、天下への一歩を踏み出します。


激しい雨が降ったことは記録にあります。ただ『信長公記』では、信長は雨がやんで空が晴れるのを見てから突撃しており、豪雨に紛れて攻めたとは書かれていません。「天が信長に味方した」という劇的な物語は、少し割り引いて読むのが現在の距離感です。

おまけトリビア

信長は出陣を前に、「人間五十年 下天のうちをくらぶれば」で始まる幸若舞(こうわかまい)『敦盛(あつもり)』を舞ったと伝わります。ドラマや小説でおなじみのあの名場面は、この桶狭間の戦いのときの話です。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、桶狭間の戦いをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

桶狭間の戦いの背景


今川義元は「海道一の弓取り」とうたわれた東海地方随一の大名です(くわしくは今川義元の記事へ)。永禄3年(1560年)5月、義元は大軍を率いて尾張へ侵攻します。その目的は「京へ上る途中だった」とする説と「尾張の攻略が目的」とする説があり、確定していません。

今川軍には、人質として今川家で育った松平元康、のちの徳川家康も従軍しており、織田方の砦への攻撃を担当していました。

経過と流れ


時系列出来事
5月19日 未明今川方が織田方の丸根砦・鷲津砦を攻撃
明け方報を受けた信長が清洲城を出撃
昼ごろ義元本隊が桶狭間で休息。激しい雨
雨の後信長本隊が義元本陣を攻撃。今川軍は崩れ、義元は討死


義元を討ち取ったのは織田家臣の毛利新介(毛利良勝)と記録されます。総大将の戦死という決定的な結果により、今川軍は総崩れとなりました。

「酒に酔っていた」は本当か


勝ち戦に浮かれて酒盛りをしていた今川軍を、信長が突いた。ドラマや小説でよく描かれる場面です。

ところが、『信長公記』に酒の場面は出てきません。書かれているのは、丸根・鷲津の砦を攻め落とした満足で、義元が謡(うたい)を三番うたわせた、というところまでです。しかもこのあと、織田方の部隊を撃退したところで、義元はもう一度謡をうたわせています。酔って気がゆるんだというより、戦勝を祝う儀礼として読める場面です。

鷲津・丸根攻め落とし、満足これに過ぐべからずとの由にて、謡を三番うたはせられたる由候(『信長公記』首・廿四「今川義元討死之事」)


では、酒はどこから来たのか。『感興漫筆』という書物が、「義元は山上に幕を張て酒宴せしを、織田氏の兵襲ふて山下に追ひ下す」、つまり山の上で酒宴をしていたところを織田の兵に襲われ、麓まで追い落とされた、という伝承を紹介しています。『信長公記』にない場面が、別の書物では語られている。桶狭間の記述は、本によってこれだけ違います。

近年では、『甲陽軍鑑』に義元が酒宴中に急襲されたとある点を評価する説も出ていますが、『甲陽軍鑑』は他国のことを伝聞で書いた部分があるとして批判もあります。

書かれていないというだけで、無かったと言い切ることはできません。ただ、もっとも信頼できる記録が酒に触れていない以上、「酒に酔って油断していた」は史実の裏づけを欠いた話として扱うのが安全です。

史実と学説


「奇襲か、正面攻撃か」。迂回奇襲説は江戸時代初期の『信長記』に由来します。しかし1980年代、研究者の藤本正行氏がより信頼性の高い『信長公記』に基づいて正面攻撃説を提唱し、以後こちらが有力視されています。その後も別の説が複数提唱されており、戦いの実像は今も研究が続いています。

興味深いのは、資料の多くが現在も「奇襲」と表記していることです。研究の最前線と一般的な記述のあいだにズレがある。歴史の「定説」が更新されていく途中の姿を、桶狭間はいまリアルタイムで見せてくれています。

今川軍の兵力は、資料により2万5千とも4万5千とも記され、実数は分かっていません。この記事で兵力の数字を使っていないのはそのためです。なお日付は、当時使われていた和暦(永禄3年5月19日)を基準にしています。西暦に直すと、1582年以前に用いるユリウス暦で1560年6月12日、現在のグレゴリオ暦にさかのぼって当てはめると6月22日にあたります。


トリビアの真相


『敦盛』の逸話は複数の資料が伝えるもので、「出陣の前に舞った」という話の筋は共通しています。『敦盛』は能とよく混同されますが、室町時代に始まった幸若舞の演目です。また「人間五十年」は「人の一生は五十年」という意味ではありません。下天(げてん)という天上界の一日が人間界の五十年にあたる、だから人の世は夢や幻のようだ、という無常観をうたった一節です。劇的な場面ほど、細部は語りの中で磨かれていく。桶狭間という戦い全体の伝わり方と、どこか重なる話です。

そしてもうひとつ。この戦いは、勝った信長だけのものではありません。今川の支配から解放された松平元康が岡崎城に戻り、自立への道を歩み始めたことは、のちの江戸幕府へつながる長い物語の出発点になりました。そして桶狭間から2年後の1562年(永禄5年)、元康は信長の居城・清洲城で織田氏と同盟を結びます(清洲同盟)。

試験に出るポイント

1560年・織田信長が今川義元を破る・場所は尾張(現在の愛知県)。今川方に松平元康(のちの徳川家康)が従軍していたことと、この戦いを機に今川氏が衰退し家康が自立する流れが頻出。「奇襲」の断定は避け、「〜とされてきた」の距離感で。


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