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刀狩令と身分統制とは?兵農分離の流れを2つの法令でわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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刀狩令(かたながりれい)と身分統制令(みぶんとうせいれい)は、豊臣秀吉が出した法令です。前者は武器を、後者は人の移動を制限しましたこの2つがそろったことで、武士と百姓の区別がはっきりとしていきます。いわゆる兵農分離の流れです。この記事では、それぞれの中身と、セットで何が起きたのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる兵農分離」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・刀狩令の大仏の釘という名目は本当だったのか

・身分統制令は何を禁じたのか

・「身分を固定した法令」という説明が見直された理由


1分でわかる刀狩令と身分統制


一言でいえば、武器を取り上げる法令と、職を変えることを禁じる法令。この2つが兵農分離をかたちにしました。

1588年 刀狩令ー武器を取り上げる

豊臣秀吉は、百姓の持つ刀や脇差、弓、槍、鉄砲を取り上げました。表向きの理由は、方広寺の大仏をつくる釘や鎹にするというもの。実際のねらいは、一揆を防ぎ、武士と百姓を分けることにありました。


1591年 身分統制令—移動を禁じる

武家に仕える奉公人が百姓や町人になること、百姓が耕作をやめて商いや日雇いに出ること、逃げた奉公人を他の武士が召し抱えること。この3つが禁じられ、違反すれば成敗、つまり厳しい処罰が待っていました。


2つそろって兵農分離

刀狩令が縛ったのはモノ、身分統制令が縛ったのはヒトです。武器を手放し、職も変えられない。こうして武士と百姓の区別がはっきりしていきました。


秀吉の政策は、この2つだけではありません。田畑を調べて年貢の基準を定めた太閤検地も同じ流れにあり、土地・武器・人の3方向から、村と百姓のあり方が組み替えられていきました。

おまけトリビア

刀狩令のあとも、村には鉄砲が残っていました。害獣を追い払うための鉄砲や、祭りに使う武具は所持が認められていたからです。武器がすべて消えたわけではありませんでした。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、2つの法令をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■刀狩令の中身


1588年(天正16年)に出された刀狩令は、3か条から成ります。

①百姓が刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武器を持つことの禁止
②集めた武器を方広寺の大仏の釘や鎹に用いること
③農具だけを持って耕作に励むこと

「集めた鉄が大仏になり、差し出した者は救われる」そう説かれました。武器を差し出させる側にとっては、大義名分になる説き方です。

③には、百姓を思えばこそ武器を取り上げるのだ、ありがたく思って耕作に励め、という趣旨も含まれていました。取り上げる側の論理が、そのまま条文に書かれているわけです。


■身分統制令の中身


1591年(天正19年)、全国に出された3か条の法令です。禁じられたのは、
①侍・中間・小者といった武家奉公人が百姓や町人になること
②百姓が耕作を放棄して商いや日雇いに出ること
③元の主人から逃げた奉公人を他の武士が召し抱えること


違反者は成敗と定められました。ただし、罰の中身と及ぶ範囲は資料によって書きぶりが分かれます。違反した本人を成敗(死刑)とするもの、村から追放するとするもの、そして違反者をかくまった町や村ごと責任を問うとするものがあり、どこまで実際に適用されたのかを一律に語ることはできません。

刀狩令が武器を制限したのに対し、こちらは、人がどこで何をして生きるかを制限しています。太閤検地で耕作の責任者として登録された百姓が村を離れてしまえば、年貢の仕組みそのものが揺らぐ。人の移動を止める法令には、そうした背景も指摘されています。

項目刀狩令身分統制令
年1588年(天正16年)1591年(天正19年)
対象武器(刀・脇差・弓・槍・鉄砲)人の身分と職業の移動
名目・建前方広寺の大仏の釘と鎹—
罰則—成敗(死刑)


■史実と学説


刀狩令は、村から武器を一掃したわけではありません。現地の実施は村の有力な百姓に任され、害獣駆除の鉄砲は免許制で残り、祭りに用いる武具も武器として扱われませんでした。近年では、百姓身分の武装解除そのものではなく、帯刀する権利を武士に限るための措置だった、という理解が有力です。江戸時代に入っても、領主側を上回る数の鉄砲が村に残った地域があったとも言われます。

身分統制令のほうは、評価そのものが更新されました。条文にある「侍」は武士一般ではなく、「若党」という武家奉公人を指す、と読み解かれたためです。

この法令を「近世の身分制度の基礎を定めたもの」と説明することは、現在では適切でないとされています。また、1591年の身分統制令と、翌1592年に関白の豊臣秀次の名で出された人掃令との関係は、同じものとして整理する資料と、別の法令と解釈する資料に分かれます。


■トリビアの真相


「刀狩令で農民の武器がなくなった」というイメージは、実像とはずれています。刀狩令の条文が求めたのは百姓の武器の差し出しでしたが、実際の回収は地域や村にゆだねられ、鉄砲は生活に必要な道具でもありました。獣を追う鉄砲、祭りの武具など、名目が立てば、武器は村に残せたのです。それでも、村が武力で領主に向かうことを封じた効果は小さくありません。武器の数ではなく、武器を持ってよい身分を決めたところに、この政策の意味があったと見られています。

試験に出るポイント

「1588年=刀狩令・武器」「1591年=身分統制令・人の移動」の年と対象のセットが頻出。刀狩令の名目(大仏の釘と鎹)と目的(一揆の防止・兵農分離)は記述問題の定番です。太閤検地が土地の政策であることと並べて整理しておくと混同しません。


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