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【占領初期の社会と政治、傾斜生産方式、片山内閣、芦田内閣】 受験日本史まとめ 82
著作名: Cogito
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衆議院総選挙の実施

1947年(昭和22年)2月、マッカーサーは吉田首相に対し議会終了ののち、総選挙を行うべきと示唆しました。これを受け、日本進歩党の構成メンバー全員と、日本自由党から芦田均ら9名と国民協同党から15名を加え、民主党が選挙直前に結成され、最高総務委員に斎藤隆夫・芦田均・犬養健らが就任し、解散直前この民主党が衆議院の第一党となっていました。

しかし4月25日に衆議院総選挙が行われると、社会143、自由131、民主124で3党が並ぶ結果となりました。この結果、5月23日、新憲法下の首班指名選挙で、衆議院・参議院両院はほぼ満場一致で、社会党委員長の片山哲を首相に選出しました。片山哲は、社会党・民主党・国民協同党の3党を支持基盤として連立内閣を組織し、中道政権を望んでいた総司令部も、この内閣の誕生を祝福しました。

社会党内閣の成立によって、石炭産業をはじめとする重要産業の国家管理論が盛んとなり、前内閣の傾斜生産方式を柱に、「経済緊急政策」とその核をなす新物価体系を設定し、経済再建に取り組みました。しかし、1948年(昭和23年)2月、社会党左派の造反により片山内閣は総辞職し、3月にそのあとを受け、民主党の芦田均が民主党・社会党・国民協同党の連立内閣を組織しました。

民主党は修正資本主義を掲げ、自由党の左・社会党の右に位置することを目指し、自由党と絶縁する姿勢を見せました。

一方、アメリカの対日政策も変化し始め、7月22日、マッカーサーは芦田均首相に書簡を送り、政令201号(ポツダム政令の形)を発し、すべての公務員の争議行為の禁止と団体交渉権を制限しました。この政令201号は同年末に国家公務員法改定により、国内法化されました。

しかし、この時期、復興金融金庫から30億円の融資を受けていた大手化学肥料メーカーの昭和電工が、さらに融資を拡大するために政界・官界に3000万円の金品をばらまいた昭和電工疑獄事件をおこし、これにより芦田内閣は総辞職しました。

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