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イスファハーンとは わかりやすい世界史用語2355 |
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著作名:
ピアソラ
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イスファハーンとは
サファヴィー朝(1501年-1736年)の時代、特に17世紀初頭のシャー・アッバース1世の治世下において、イスファハーンはペルシャ帝国の首都として、政治、経済、文化、そして建築の分野で空前の繁栄を遂げました。この都市は、壮大な都市計画に基づいて再構築され、「世界の半分」と称されるほどの美しさを誇るようになりました。壮麗なモスク、宮殿、広場、橋、そして活気あふれるバザールが建設され、その多くは今なおその姿を留めており、サファヴィー朝の芸術と建築の頂点を示す貴重な遺産となっています。
首都遷都の背景とアッバース1世の野心
1598年、サファヴィー朝第5代シャーであるアッバース1世(在位1588年-1629年)は、帝国の首都を北西部のカズヴィーンから中央部のイスファハーンへ移すという重大な決断を下しました。 この遷都は、単なる地理的な移動ではなく、サファヴィー朝の国家体制を再構築し、内外にその権威を誇示するための壮大な計画の始まりでした。
アッバース1世がイスファハーンを新首都として選んだ理由は多岐にわたります。第一に、地政学的な優位性が挙げられます。イスファハーンはイラン高原のほぼ中央に位置し、当時脅威となっていたオスマン帝国やウズベクといった外敵の国境から安全な距離にありました。 それまでの首都カズヴィーンはオスマン帝国の脅威に晒されやすく、防衛上の脆弱性を抱えていました。中央に位置するイスファハーンは、帝国全土へのアクセスが容易であり、軍事的・政治的な安定を図る上で理想的な場所でした。
第二に、経済的な潜在力です。イスファハーンは、ザヤンデ川がもたらす肥沃な平野に恵まれ、古くから農業が盛んな地域でした。 さらに、東西南北を結ぶ主要な交易路の交差点に位置しており、シルクロード交易の要衝としての役割を担っていました。 アッバース1世は、この地の利を活かして商業を活性化させ、帝国の経済基盤を強化することを目論んでいました。彼は、シルクロードのルートを意図的にイスファハーン経由に変更することで、帝国が貿易独占の利益を享受できるようにしたのです。
第三に、歴史的な正統性の継承です。イスファハーンは、かつて11世紀から12世紀にかけて広大な領域を支配したセルジューク朝の首都でもありました。 セルジューク朝は、イランの歴史において輝かしい時代を築いた王朝であり、アッバース1世は、その旧都を自らの首都とすることで、過去の偉大な王朝の後継者としての権威を演出しようとしました。これは、彼の治世初期において、サファヴィー朝の存続自体が盤石ではなかった状況下で、特に重要な意味を持っていました。
第四の理由として、個人的な要因も指摘されています。カズヴィーンの気候がアッバース1世の健康に合わなかったことや、占星術師たちがカズヴィーンの運気が衰退すると予測したことなどが、遷都の決断を後押ししたと言われています。
アッバース1世は、イスファハーンを単なる政治の中心地としてだけでなく、サファヴィー朝のイデオロギー、すなわちシーア派イスラームを国教とする国家の象徴として、壮麗な都市に作り変えるという壮大なビジョンを抱いていました。彼は、この都市を帝国の権力、富、そして文化の粋を集めたショーケースとすることを目指したのです。この野心的な計画は、1598年の遷都を皮切りに、壮大な都市改造プロジェクトとして実行に移され、イスファハーンは未曾有の変貌を遂げることになります。
壮大な都市計画:世界のイメージの創造
アッバース1世によるイスファハーンの再開発は、無計画なものではなく、明確なビジョンに基づいた壮大な都市計画の産物でした。その核心にあったのは、政治、宗教、経済という国家の三つの柱を一つの空間に統合するという革新的な思想です。この思想を具現化したのが、新首都の中心に建設されたナクシェ・ジャハーン広場(「世界のイメージの広場」の意)でした。
この広場は、長さ約560メートル、幅約160メートルという、当時としては世界最大級の規模を誇りました。 アッバース1世は、セルジューク朝時代からの旧市街の南側にこの新しい都市の中心を定め、帝国の権威を象徴する新たな舞台を創造しました。 広場の周囲には、それぞれ国家の重要な機能を象徴する壮麗な建築物が配置されていました。
南側には、国家の宗教的権威を象徴するシャー・モスク(後のイマーム・モスク)が建設されました。 このモスクは、公的な礼拝の中心地として、サファヴィー朝が国教と定めたシーア派イスラームの威光を示すものでした。
東側には、シャーとその家族のための私的な礼拝堂であるシェイフ・ロトフォッラー・モスクが建てられました。 このモスクは、その繊細で優美な装飾で知られ、王家の敬虔さを示す象徴でした。
西側には、帝国の政治的中心であるアーリー・カープー宮殿がそびえ立ちました。 この宮殿は、政府の行政機関が置かれただけでなく、シャーが広場で行われるポロの試合や軍事パレードを観覧するための観覧席としての機能も備えていました。
そして北側には、帝国の経済的繁栄を象徴するゲイサリーイェ門があり、これは巨大なグランド・バザールへの入り口となっていました。 このバザールは、旧市街のバザールと新市街を結びつけ、イスファハーンをシルクロード交易の中心地として機能させる上で不可欠な役割を果たしました。
このように、ナクシェ・ジャハーン広場は、宗教施設(シャー・モスクとシェイフ・ロトフォッラー・モスク)、政治施設(アーリー・カープー宮殿)、そして商業施設(グランド・バザール)という、国家を構成する三つの主要な要素を、一つの壮大な公共空間の中に統合する設計となっていました。 この調和の取れた都市計画は、サファヴィー朝の権力が安定し、社会のあらゆる側面を支配していることを視覚的に示す強力なプロパガンダでした。
広場自体も多目的な空間として利用されました。日中は活気ある市場が開かれ、人々が集う社交の場となりました。 また、シャーの誕生日やノウルーズ(新年)などの祝祭日には、イルミネーションで彩られ、盛大な祝典が催されました。 さらに、広場はポロの競技場としても使用され、そのための石造りのゴールポストが今も残されています。 このように、ナクシェ・ジャハーン広場は、単なる記念碑的な空間ではなく、イスファハーンの市民生活の中心として機能する、生きた都市空間だったのです。
この壮大な都市計画は、イスファハーンをセルジューク朝の遺産を受け継ぐだけの都市から、サファヴィー朝独自の輝きを放つ「世界の半分」と称されるにふさわしい、比類なき帝都へと昇華させました。
建築の粋:ナクシェ・ジャハーン広場を彩る至宝
アッバース1世の都市計画の中心であるナクシェ・ジャハーン広場は、サファヴィー建築の粋を集めた傑作群によってその四方を固められています。これらの建築物は、それぞれが独自の機能と美しさを持ちながら、全体として調和のとれた景観を創り出しており、イスファハーンを「世界の半分」たらしめている核心的な要素です。
シャー・モスク(イマーム・モスク):宗教的権威の象徴
広場の南側に位置するシャー・モスクは、サファヴィー建築の最高傑作の一つと広く見なされています。 1611年に建設が始まり、アッバース1世の死後、1629年頃に完成しました。このモスクは、国家の公式な宗教施設として、サファヴィー朝が国教としたシーア派イスラームの権威と壮麗さを体現しています。
建築的に最も注目すべき特徴の一つは、その入り口の配置です。広場は南北の軸に沿って設計されているのに対し、イスラームの礼拝方向(キブラ)はメッカの方角、すなわち南西を向いています。 設計者たちは、広場の全体的な対称性を損なうことなくこの向きの違いを解決するため、入り口のポータルを広場に正対させ、そこから斜めに曲がった廊下を通って中庭に至るという巧みな設計を採用しました。これにより、外部からの見た目の調和と、内部における宗教的な要請の両方を満たすことに成功しています。
モスクの内部は、伝統的なペルシャ様式の四イーワーン形式(中庭の四方に入り口となる大きなアーチ状のホールを配する形式)で構成されています。 巨大な中央ドームと、それを囲むように配置されたミナレット(尖塔)は、壮大なスケール感を誇ります。しかし、このモスクを真に際立たせているのは、その息をのむほど美しいタイル装飾です。
建物の内外は、「ハフト・ランギ」(7色のタイル)と呼ばれる技法で制作された色鮮やかなタイルで埋め尽くされています。 青を基調としたタイルは、ターコイズ、コバルトブルー、ラピスラズリなど様々な色調の青が用いられ、天上の美しさを表現しています。これらのタイルには、精緻な幾何学模様、植物文様(アラベスク)、そしてコーランの章句を記したカリグラフィーが描かれており、それらが一体となって複雑で調和のとれた視覚的交響曲を奏でています。特に、巨大なドームの内側を覆うタイルのパターンは、中心から放射状に広がるデザインで、見る者を宇宙的な感覚へと誘います。
シャー・モスクは、その巨大なスケール、革新的な建築技術、そして比類なき装飾美によって、サファヴィー帝国の宗教的権威と芸術的達成の高さを雄弁に物語る、不朽のモニュメントです。
シェイフ・ロトフォッラー・モスク:王家の私的な宝石箱
広場の東側、アーリー・カープー宮殿の向かいに位置するシェイフ・ロトフォッラー・モスクは、シャー・モスクの壮大さとは対照的に、その繊細で優美な美しさで知られています。 このモスクは1603年から1619年にかけて建設され、シャー・アッバース1世とその家族、特に義父である高名な宗教学者シェイフ・ロトフォッラーに捧げられた、王家専用の私的な礼拝堂でした。
このモスクの最大の特徴は、その非定型的な設計にあります。一般的なモスクに見られるミナレット(尖塔)や中庭(サフン)が存在しないのです。 これは、公衆の礼拝を目的とした施設ではなく、あくまで王家のためのプライベートな空間であったことを示しています。建物は、ドームを頂く単一の礼拝ホールで構成されており、その規模は比較的小さく、親密な雰囲気に満ちています。
シャー・モスクと同様に、ここでもキブラ(礼拝方向)と広場の軸線のずれを解消するための工夫が見られます。入り口から礼拝ホールへは、L字型に曲がった薄暗い廊下が続いており、訪問者はこの通路を通ることで、俗世の喧騒から聖なる空間へと精神的に移行する体験をします。
このモスクの真骨頂は、その内部装飾、特にドームの美しさにあります。ドームの内部は、クリーム色を基調としたタイルで覆われ、中央に向かって渦を巻くように精緻なアラベスク模様が描かれています。 時間帯によってドームの頂上付近にある窓から光が差し込むと、その光が孔雀の尾のように見えることから「ピーコック・ドーム」とも呼ばれています。 この幻想的な光の演出は、建築と自然光が織りなす芸術の極致と言えます。壁面もまた、複雑な幾何学模様や植物文様のタイルで装飾され、その繊細さと色彩の調和は、まるで宝石箱の中にいるかのような感覚を与えます。
外部のドームもまた独特で、一般的なモスクの鮮やかな青色とは異なり、日中の光の当たり方によってクリーム色からピンク色へと変化する、淡く繊細な色合いのタイルで覆われています。 この控えめでありながら洗練された外観は、王家のための特別な場所としての品格を漂わせています。
シェイフ・ロトフォッラー・モスクは、その規模こそ小さいものの、完璧なプロポーション、革新的な光の利用、そして息をのむほど精緻な装飾によって、サファヴィー建築の中でも最も洗練された、宝石のような存在として輝きを放っています。
アーリー・カープー宮殿:権力の舞台
広場の西側に堂々とそびえ立つアーリー・カープー宮殿は、サファヴィー朝の政治権力の中枢でした。 「アーリー・カープー」とは「高い門」を意味し、その名の通り、元々はナクシェ・ジャハーン広場から西に広がる広大な宮殿地区への壮麗な入り口として機能していました。 16世紀末にシャー・アッバース1世によって建設が開始され、その後、後継のシャーたちによって増改築が繰り返され、現在の6階建ての複雑な構造となりました。
この宮殿は、単なる門や住居ではなく、多様な機能を持つ複合的な施設でした。低層階は、政府の行政機関や衛兵の詰所として使用されました。 そして、この建物の最も象徴的な部分は、広場に面して設けられた高く開放的なテラス(タラール)です。18本のスレンダーな木の柱に支えられたこのテラスは、シャーや宮廷の人々が、眼下に広がる広場で行われるポロの試合、軍事パレード、祝祭、あるいは公開処刑といった様々な公的行事を観覧するための特等席でした。 ここから民衆を見下ろすシャーの姿は、サファヴィー朝の絶対的な権力を視覚的に示す強力な演出でした。
宮殿の内部は、サファヴィー朝の芸術の粋を集めた豪華な装飾で彩られています。壁や天井は、当時の著名な宮廷画家レザー・アッバースィーとその工房の画家たちによる壁画で飾られています。 これらの壁画には、宮廷での饗宴の様子、優雅な男女の姿、庭園の風景などが描かれ、当時の華やかな宮廷生活を垣間見ることができます。
アーリー・カープー宮殿の最上階である6階には、建築的にも音響的にも特筆すべき「音楽室」があります。 この部屋の壁や天井には、壺や楽器の形を模した深い壁龕(へきがん)が多数くり抜かれています。この複雑なスタッコ(化粧漆喰)装飾は、単に装飾的な美しさを持つだけでなく、音を効果的に反響・吸収し、室内で演奏される音楽の音響効果を高めるという実用的な機能も兼ね備えていました。 ここでは、シャーのために私的な演奏会が催され、繊細なペルシャ音楽の音色が響き渡っていたことでしょう。
アーリー・カープー宮殿は、その堂々たる外観と内部の豪華な装飾、そして政治的・儀礼的な機能性によって、ナクシェ・ジャハーン広場における世俗権力の中心として、宗教的権威を象徴するモスク群と見事な対比を成しています。それは、サファヴィー帝国の権威と洗練された文化が一体となった、まさに「高い門」と呼ぶにふさわしい建築物です。
ゲイサリーイェ門とグランド・バザール:帝国の経済エンジン
ナクシェ・ジャハーン広場の北辺を飾るのが、壮麗なゲイサリーイェ門です。 この門は単なる広場の出入り口ではなく、イスファハーンの経済的繁栄の心臓部であった広大なグランド・バザールへの公式な入り口としての役割を担っていました。 1620年頃に建設されたこの門とそれに続くバザールは、アッバース1世の都市計画において、商業活動を新首都の中心に据えるという意図を明確に示しています。
ゲイサリーイェ門自体も、サファヴィー朝の芸術が凝縮された建築物です。門の上部には、色鮮やかなタイル画が施されており、そこにはシャー・アッバース1世のホラーサーンでのウズベク族に対する勝利を描いた場面や、神話上の射手である人頭のケンタウロス(いて座のシンボルで、イスファハーンの星座とされた)などが描かれています。これらの装飾は、帝国の軍事力と威光を内外の商人たちに誇示するものでした。
この門をくぐると、そこには迷路のように広がる屋根付きの市場、グランド・バザールが続いています。 このバザールは、11世紀のセルジューク朝時代にその起源を持ちますが、サファヴィー朝時代、特にアッバース1世の治世下で大規模に拡張・整備されました。 新しいバザールは、ナクシェ・ジャハーン広場と、セルジューク朝時代からの旧市街の中心であった旧広場(コフネ広場)や金曜モスクを結ぶ、全長数キロメートルに及ぶアーチ状の天井の通りとなりました。
バザール内部は、単なる商店の連なりではありませんでした。そこには、商品の種類ごとに専門の区画が設けられ、絨毯、細密画、金属細工、陶器、香辛料、布地など、ペルシャ全土や世界各地から集められたありとあらゆる商品が取引されていました。 バザールは、国際的な社会のハブであり、アジア、ヨーロッパ、中東からやってきた商人、旅行者、学者、詩人たちが出会う交流の場でもありました。
さらに、バザールの内部には、商業施設だけでなく、モスク、マドラサ(神学校)、隊商宿(キャラバンサライ)、公衆浴場(ハンマーム)といった様々な公共施設が組み込まれていました。 特にキャラバンサライは、遠方から来た商人たちが宿泊し、商品を保管・取引するための重要な施設であり、バザールの経済活動を支える上で不可欠な役割を果たしました。これらの施設は、バザールが単なる経済の中心地であるだけでなく、社会生活、宗教、学問の中心地でもあったことを示しています。
アッバース1世は、このバザールを国家の管理下に置き、そこから上がる税収を帝国の重要な財源としました。彼は、有能な職人や商人を強制的にイスファハーンに移住させるなど、積極的な経済政策を展開しました。 グランド・バザールは、まさにアッバース1世が築いた国家主導の資本主義システムの中核をなす、帝国の経済エンジンだったのです。
ゲイサリーイェ門とグランド・バザールは、ナクシェ・ジャハーン広場を構成する四つの要素の中で、帝国の経済力と国際的な交易ネットワークの広がりを象徴しており、サファヴィー朝イスファハーンの繁栄を支えたダイナミズムを今に伝えています。
ザヤンデ川を渡る橋:機能と美の融合
イスファハーンの都市景観を語る上で、街の中心を東西に流れるザヤンデ川と、そこに架かる壮麗な橋の存在は欠かせません。サファヴィー朝時代、特にシャー・アッバース1世とその後の治世において、川の南北を結ぶ交通の要衝として、また市民の憩いの場として、機能性と芸術性を見事に融合させた数々の橋が建設されました。 これらの橋は、単なるインフラではなく、都市の美観を高める重要な建築作品と位置づけられていました。
スィー・オ・セ・ポル(三十三の橋)
「三十三の橋」を意味するスィー・オ・セ・ポルは、アッバース1世の命により、彼の最も信頼する将軍であり宰相であったグルジア系のアルラヴェルディ・ハーンの監督のもと、1599年から1602年にかけて建設されました。 そのため、「アルラヴェルディ・ハーン橋」とも呼ばれます。全長約298メートルとイスファハーンで最も長いこの橋は、その名の通り、2層構造になった33のアーチから構成されています。
この橋の主な目的は、王宮や官庁街、バザールがある市の中心部(川の北側)と、当時アルメニア人商人が多く住んでいた新興地区ジョルファー(川の南側)とを結ぶことでした。 アルメニア人商人は、アッバース1世の経済政策の要である絹貿易において中心的な役割を担っており、この橋は帝国の経済を支える重要な動脈でした。
しかし、スィー・オ・セ・ポルは単なる交通路ではありませんでした。橋の上下の層には歩道が設けられ、特に上層のアーチに囲まれた通路は、日差しや風を避けながら川の景色を楽しむことができる格好の散策路となりました。橋の中央部やたもとには喫茶店(チャイハネ)が設けられ、市民が集い、語らい、涼むための社交場として機能しました。
また、この橋は様々な祭典の舞台ともなりました。サファヴィー朝時代には、新年(ノウルーズ)の祝祭や、水をかけ合う祭り、そしてアルメニア人コミュニティによるキリストの公現祭(ハージュ・シューヤーン)などがこの橋の周辺で盛大に催されました。 夜にはイルミネーションで飾られ、その姿は水面に美しく映し出され、幻想的な光景を創り出しました。
スィー・オ・セ・ポルは、その壮大なスケールと規則正しく並んだアーチの構造的な美しさ、そして交通、商業、社交、儀礼といった多様な機能を統合した設計により、サファヴィー朝の橋梁建築を代表する傑作とされています。
ハージュ橋
スィー・オ・セ・ポルの下流に位置するハージュ橋は、多くの人々からイスファハーンで最も美しい橋と称賛されています。 この橋は、アッバース1世の曾孫にあたるシャー・アッバース2世の治世下、1650年頃に古い橋の基礎の上に建設されました。 全長約130メートル、24のアーチを持つこの橋は、スィー・オ・セ・ポルよりも小規模ですが、より洗練された多機能性を備えています。
ハージュ橋の最大の特徴は、橋としての機能に加えて、ダム(堰)としての機能も併せ持っている点です。 橋脚の間には水門が設けられており、これを閉じることで上流のザヤンデ川の水位を上げ、静かで美しい湖のような景観を創り出すことができました。この溜められた水は、周囲の庭園の灌漑にも利用されました。
建築的にも、ハージュ橋は非常に装飾的です。橋の中央には、シャーや宮廷の人々が川の景色や涼を楽しむための特別なパビリオン(展望室)が設けられています。 このパビリオンや通路の壁は、かつては美しいタイル画や絵画で飾られていました。橋の内部には石のベンチが設えられ、人々はアーチの陰で涼みながら水辺の景色を楽しむことができました。
ハージュ橋もまた、市民の憩いの場として愛されました。特に、アーチの下の空間は音響効果が良く、人々が集まって歌を歌ったり、詩を朗読したりする場となりました。夜になるとライトアップされ、その優雅な姿が水面に映る様は、イスファハーンを象徴する風景の一つです。
これらの橋は、サファヴィー朝の土木技術の高さを証明すると同時に、建築物を単なる機能的な構造物としてではなく、都市生活を豊かにし、景観を美しく彩る芸術作品として捉える、当時の洗練された都市文化を物語っています。
宮殿と庭園:地上の楽園の創造
サファヴィー朝のシャーたちは、イスファハーンの都市景観を壮麗なモスクや広場だけで飾るのではなく、権力と安らぎの空間として、数多くの宮殿とペルシャ式庭園を造営しました。これらの宮殿と庭園は、ナクシェ・ジャハーン広場から西に延びるチャハールバーグ大通り沿いや、その周辺に点在し、王家の華やかな生活と洗練された美意識を反映しています。
チェヘル・ソトゥーン宮殿(四十本の柱の宮殿)
アーリー・カープー宮殿の裏手、広大な庭園の中に佇むチェヘル・ソトゥーン宮殿は、サファヴィー朝の宮殿建築を代表する傑作の一つです。 「チェヘル・ソトゥーン」とは「四十本の柱」を意味しますが、実際に宮殿の正面玄関ホールを支えているのは20本のスレンダーな木の柱です。この20本の柱が、宮殿の前に広がる大きな池の水面に映り込み、合計で40本に見えることからこの名が付けられました。この詩的な名前自体が、現実と幻想が交錯するペルシャ芸術の特質を象徴しています。
この宮殿は、シャー・アッバース1世の時代に建設が始まり、シャー・アッバース2世の治世下である17世紀半ばに完成・拡張されました。その主な用途は、外国使節の謁見や、盛大な祝宴を催すためのレセプションホールでした。
宮殿の内部は、その壮麗な壁画で特に有名です。 大広間の壁面には、サファヴィー朝の歴史における重要な出来事を描いた巨大なフレスコ画が飾られています。そこには、シャー・アッバース1世がウズベクのハーンを歓迎する饗宴の場面、シャー・タフマースブ1世が亡命してきたムガル帝国の皇帝フマーユーンをもてなす場面、そしてチャルディラーンの戦いにおけるオスマン帝国との激戦や、インドでのムガル軍との戦いの様子などが、生き生きとした筆致で描かれています。 これらの壁画は、サファヴィー朝の宮廷の豪華さや軍事的な威光を外国使節に印象付けるための、効果的な視覚的プロパガンダでした。また、より小さな部屋には、恋愛をテーマにした優雅な絵画や、ヨーロッパ風の衣装をまとった人物像なども描かれており、当時の国際的な文化交流の様子を伝えています。
宮殿を取り囲む広大な庭園は、ペルシャ式庭園(バーグ)の典型的な様式で作られています。水路が庭園を幾何学的に分割し、池や噴水が涼やかさと潤いを与え、様々な種類の樹木や花々が植えられています。この庭園は、砂漠気候の中にあって、水と緑が豊かに存在する「地上の楽園」を象徴する空間であり、宮殿建築と一体となって、訪れる者に安らぎと感動を与えました。
ハシュト・ベヘシュト宮殿(八つの楽園の宮殿)
チャハールバーグ大通りの近くに位置するハシュト・ベヘシュト宮殿は、サファヴィー朝後期のシャー・スレイマーンの時代、1669年頃に建てられた、より小規模で優雅な離宮です。 「ハシュト・ベヘシュト」は「八つの楽園」を意味し、その名の通り、イスラームの宇宙観における8つの天国を象徴した建築プランに基づいています。
この宮殿の設計は非常に独創的で、中央にドームを頂く八角形のホールがあり、その周囲を2層にわたって小さな部屋が取り囲むという構成になっています。この中央ホールにはかつて大理石の噴水があり、上層階の部屋からはバルコニーを通じて庭園の景色を眺めることができました。開放的な構造と精巧な装飾が特徴で、シャーが親しい側近たちとくつろぐための、プライベートな娯楽空間として機能しました。
内部は、スタッコ装飾、鏡細工、そして美しい壁画で豪華に飾られていました。 特に、鳥や動物を描いたタイル装飾は秀逸で、サファヴィー朝後期の洗練された芸術様式をよく示しています。
チェヘル・ソトゥーンやハシュト・ベヘシュトといった宮殿と庭園は、サファヴィー朝のシャーたちが、公的な権威を誇示する場としてだけでなく、自然の美を取り入れた芸術的な空間で私的な安らぎを求める、洗練された文化人であったことを物語っています。これらの「地上の楽園」は、イスファハーンの都市景観に詩情と華やかさを添える、不可欠な要素でした。
ジョルファー地区とヴァンク大聖堂:文化的多様性の象徴
シャー・アッバース1世のイスファハーン改造計画は、イスラーム建築の粋を集めたモスクや宮殿の建設だけに留まりませんでした。彼の現実的な経済政策と、ある種の宗教的寛容さを示す最も顕著な例が、ザヤンデ川の南岸に建設されたアルメニア人地区「新ジョルファー」と、その中心にそびえるヴァンク大聖堂です。
17世紀初頭、アッバース1世はオスマン帝国との戦争の焦土作戦の一環として、当時オスマン帝国との国境地帯にあったアルメニアの都市ジュルファ(ジョルファー)の住民を、強制的にペルシャ領内へ移住させました。 この中には、国際的な絹貿易のネットワークを掌握していた熟練の商人や、優れた技術を持つ職人たちが数多く含まれていました。 アッバース1世は、彼らの経済力と商業的ノウハウを帝国の発展に利用することを目論み、彼らの新たな居住地としてイスファハーンのザヤンデ川南岸に土地を与え、故郷の名にちなんで「新ジョルファー」と名付けました。
アッバース1世は、アルメニア人に対し、信仰の自由を保障し、独自の教会を建設することを許可しました。 この政策は、彼らの経済活動を促進し、帝国への忠誠心を確保するための戦略的な判断でした。こうして、新ジョルファー地区には、サファヴィー朝の首都の中心にありながら、キリスト教文化が花開くという、ユニークな空間が誕生したのです。17世紀末には、この地区に24もの教会が存在したと記録されています。
その中でも、新ジョルファー地区の精神的・文化的中心となったのが、ヴァンク大聖堂(正式名称:聖なる救い主大聖堂)です。 「ヴァンク」とはアルメニア語で「修道院」を意味します。 その建設は1606年に小さな礼拝堂として始まり、その後、シャー・アッバース2世の治世下である1655年から1664年にかけて、現在見られるような壮麗な大聖堂へと改築されました。
ヴァンク大聖堂の建築様式は、アルメニアとペルシャの文化が見事に融合している点で非常に興味深いものです。 外観は、レンガ造りの質素な佇まいで、特にドームの形状はペルシャのモスクを彷彿とさせます。 これは、イスラームが支配的な社会において、キリスト教の教会が過度に目立つことを避けた結果かもしれません。
しかし、一歩内部に足を踏み入れると、その印象は一変します。壁、天井、ドームの内部は、旧約聖書・新約聖書の物語(天地創造、アダムとイブの楽園追放、イエスの生涯など)や、オスマン帝国下でのアルメニア人殉教者の受難を描いた、色鮮やかなフレスコ画で全面が埋め尽くされています。 この豪華絢爛な壁画は、ビザンティン美術や西欧ルネサンス絵画の影響を受けつつも、ペルシャ細密画の繊細な表現も取り入れており、まさに文化の十字路であったイスファハーンならではの芸術様式を示しています。壁の下部は、ペルシャ風の美しいタイルで装飾されており、イスラーム建築の要素がキリスト教会建築の中に巧みに取り入れられています。
大聖堂の敷地内には、図書館と博物館も併設されています。この博物館には、アルメニアの宗教芸術、装飾写本、民族衣装、そしてサファヴィー朝のシャーたちがアルメニア人コミュニティに与えた勅令などが収蔵されています。特に注目すべきは、1606年にイスファハーンで設立された、中東で最初の印刷所で印刷された書籍です。これは、アルメニア人コミュニティが、単なる商人集団としてだけでなく、高度な文化と技術を持つ集団であったことを示しています。
新ジョルファー地区とヴァンク大聖堂の存在は、サファヴィー朝イスファハーンが、単一の文化で塗り固められた都市ではなく、多様な民族や宗教が共存し、互いに影響を与え合う、国際的でコスモポリタンな都市であったことを力強く証明しています。アッバース1世の現実主義的な政策によって生まれたこの地区は、帝国の経済的繁栄に大きく貢献すると同時に、イスファハーンの文化に深みと多様性をもたらす重要な役割を果たしたのです。
芸術と工芸の開花:世界の工房
サファヴィー朝時代のイスファハーンは、壮大な建築の舞台であっただけでなく、ペルシャ芸術のあらゆる分野が黄金時代を迎えた「世界の工房」でもありました。シャー・アッバース1世をはじめとする歴代の君主は、芸術の熱心な庇護者であり、宮廷に王立の工房(キターブハーネ)を設立しました。この工房には、ペルシャ全土から、さらには国外からも、最も優れた画家、書家、製本職人、陶工、金属工芸家、絨毯職人たちが集められました。彼らは、王家の庇護のもとで互いに競い合い、技術を磨き、数多くの傑作を生み出しました。
細密画(ミニアチュール):イスファハーン派の革新
サファヴィー朝の芸術を代表するものの一つが、細密画(ミニアチュール)です。伝統的に、細密画は『シャー・ナーメ(王書)』のような叙事詩や物語の写本を飾る挿絵として制作されてきました。しかし、16世紀末から17世紀にかけてのイスファハーンでは、細密画のあり方に大きな変化が起こりました。
この変革の中心人物が、宮廷画家レザー・アッバースィー(1565年頃-1635年)です。彼は、伝統的な写本挿絵の制作から離れ、一枚一枚が独立した芸術作品として鑑賞される「単葉画」のジャンルを確立しました。彼の作品の主題は、神話や歴史上の英雄ではなく、宮廷の優雅な若者、物思いにふける恋人たち、美しい女性、あるいは年老いたスーフィー(神秘主義者)など、より日常的で人間的なテーマへと移行しました。
レザー・アッバースィーの画風は、流麗で力強い描線、洗練された色彩感覚、そして人物の心理を巧みに捉える表現力に特徴があります。彼の描く人物は、理想化されつつも生き生きとした個性を持ち、当時の宮廷の洗練された雰囲気を伝えています。この新しいスタイルは「イスファハーン派」として知られるようになり、彼とその弟子たちによって、サファヴィー朝後期の絵画様式を決定づけました。彼らの作品は、アルバム(ムラッカ)に貼り込まれて収集・鑑賞され、裕福な商人階級の間でも人気を博しました。
カリグラフィー
イスラーム文化において、カリグラフィーは最も高く評価される芸術形式の一つです。それは、神の言葉であるコーランを記すための神聖な技術と見なされてきたからです。サファヴィー朝時代のイスファハーンでは、書道は建築装飾と密接に結びつき、その頂点を迎えました。シャー・モスクやシェイフ・ロトフォッラー・モスクの壁面を飾る壮麗なタイルには、コーランの章句や預言者ムハンマドへの賛辞が、様々な書体で記されています。
特に、流麗なナスフ体や、力強く構築的なスルス体といった書体が、建築装飾に好んで用いられました。これらのカリグラフィーは、単に情報を伝える文字としてだけでなく、それ自体が神の美と秩序を表現する抽象的な芸術パターンとして機能しています。建物の巨大なスケールに合わせてデザインされたカリグラフィーは、見る者に畏敬の念を抱かせ、空間に神聖な雰囲気を与えています。レザー・アッバースィー自身も優れた書家であり、彼の絵画作品にはしばしば美しいカリグラフィーが添えられています。
陶芸:中国磁器への挑戦と独創性
サファヴィー朝時代、特に17世紀のイスファハーンでは、陶芸が目覚ましい発展を遂げました。この発展の大きな原動力となったのが、シルクロードを通じて大量にもたらされた中国の磁器、特に青花(白地に青で文様を描いた磁器)でした。ペルシャの宮廷や富裕層は中国磁器の熱心な収集家であり、その洗練された美しさは、ペルシャの陶工たちにとって大きな刺激と挑戦の対象となりました。
ペルシャには磁器の原料となるカオリンが産出しなかったため、陶工たちは石英を主成分とするフリットウェア(ガラス陶器)と呼ばれる独自の素地を用いて、中国磁器の白さや硬さに近づけようと試みました。彼らは、中国の青花を模倣し、龍や鳳凰、祥雲といった中国的なモチーフを取り入れつつも、そこにペルシャ独自の感性を加えていきました。例えば、人物像や動物、ペルシャ細密画風の風景などを描き加えることで、単なる模倣に終わらない独創的な作品を生み出しました。
また、青花だけでなく、セラドン(青磁)風の陶器や、赤や緑の上絵付けを施した多色陶器など、多様なスタイルの陶器が生産されました。これらのイスファハーン陶器は、国内市場だけでなく、ヨーロッパにも輸出され、高い評価を得ました。
絨毯:ペルシャ芸術の象徴
ペルシャ絨毯は、古くからイラン文化の象徴であり、サファヴィー朝時代にその芸術性は頂点に達しました。シャー・アッバース1世は、絨毯産業を国家の重要な輸出産業と位置づけ、イスファハーンに王立の絨毯工房を設立しました。ここでは、最高級の羊毛や絹、金糸・銀糸といった素材を用い、宮廷画家の描いた下絵に基づいて、極めて精緻で芸術性の高い絨毯が織られました。
イスファハーンで制作された絨毯は、その洗練されたデザインで知られています。中央にメダリオンを配し、その周囲を蔓草や花々が絡み合う複雑なアラベスク文様で埋め尽くすデザインや、楽園の庭園を模したデザイン、動物たちが争う狩猟文様などが代表的です。これらのデザインは、細密画や建築装飾とも共通する美意識に基づいており、サファヴィー朝芸術の調和のとれた世界観を反映しています。
これらの絨毯は、宮殿やモスクの床を飾り、壁掛けとして用いられただけでなく、ヨーロッパの王侯貴族への重要な外交的贈答品ともなり、ペルシャ文化の精華を世界に伝えました。
これらの芸術・工芸品は、イスファハーンが単なる政治・経済の中心地ではなく、サファヴィー朝の美意識と創造性が凝縮された、真の文化の中心地であったことを物語っています。
社会と経済:繁栄のダイナミズム
17世紀のイスファハーンの繁栄は、シャー・アッバース1世の強力なリーダーシップと、彼が推進した一連の野心的な社会・経済改革によって支えられていました。彼の目標は、封建的な部族連合国家であったサファヴィー朝を、中央集権的な官僚制国家へと転換させ、国家が経済を直接コントロールする体制を築くことでした。
中央集権化と「第三勢力」の台頭
アッバース1世以前のサファヴィー朝は、テュルク系の遊牧部族であるキズィルバーシュの軍事力に大きく依存していました。しかし、彼らはしばしばシャーの権威を脅かす存在でもありました。そこでアッバース1世は、キズィルバーシュの力を削ぐため、グルジア、アルメニア、チェルケスといったカフカス地方出身のキリスト教徒を強制的に移住させ、イスラームに改宗させた上で、彼らからなる新しい常備軍と官僚機構を創設しました。
「グラーム」と呼ばれるこの新しいエリート層は、部族的な背景を持たず、シャー個人にのみ忠誠を誓う存在でした。彼らは「第三勢力」として、従来のペルシャ人官僚(タージク)とテュルク系軍人(キズィルバーシュ)の間にあって、シャーの権力を強化する上で決定的な役割を果たしました。宰相アルラヴェルディ・ハーン(スィー・オ・セ・ポルの建設者)も、このグラーム出身の代表的な人物です。この中央集権化政策により、国内の安定が確保され、大規模な都市建設や経済改革を推進するための基盤が整いました。
国家主導の経済とシルク貿易の独占
アッバース1世の経済政策の核心は、国家による貿易の独占、特に最も価値のある商品であった生糸(シルク)の貿易を国家の専売とすることでした。彼は、主要な絹の産地であるカスピ海沿岸地方を王領地とし、生産から販売までの全プロセスを国家の管理下に置きました。
そして、その販売を担わせたのが、新ジョルファー地区に移住したアルメニア人商人たちでした。彼らは、ヨーロッパからインド、東南アジアに至る広範な国際交易ネットワークを持っており、ペルシャの生糸をヨーロッパ市場に直接販売することで、中間マージンを排除し、莫大な利益を帝国にもたらしました。この利益は、イスファハーンの壮大な建設プロジェクトや、新しい常備軍の維持費を賄うための重要な財源となりました。
イスファハーンのグランド・バザールは、この国家主導の経済システムの中心地として機能しました。世界中から商品と商人が集まり、活発な取引が行われました。バザールには、様々な職能組合(ギルド)が存在し、商品の品質や価格を管理していましたが、それらもまた国家の監督下に置かれていました。
国際都市イスファハーンの社会
サファヴィー朝時代のイスファハーンは、驚くほど多様な人々が暮らす国際都市でした。ペルシャ人、テュルク人、アラブ人に加え、強制移住させられたアルメニア人、グルジア人、チェルケス人といったカフカス系の人々が大きなコミュニティを形成していました。また、ヨーロッパからも、イギリス東インド会社やオランダ東インド会社の商人、カトリックの宣教師、時計職人や画家といった技術者、そして冒険家など、多くの人々がこの「世界の半分」と称された都を訪れ、居住していました。
シャー・アッバース1世は、帝国の利益になる限りにおいて、異教徒に対しても比較的寛容な政策をとりました。アルメニア人には信仰の自由と自治が認められ、ヨーロッパ人商人も市内に商館を構えることを許可されました。このような国際的な雰囲気は、イスファハーンの文化に刺激を与え、芸術や学問の分野での交流を促しました。
しかし、この繁栄と寛容は、常に盤石なものではありませんでした。社会の頂点にはシャーを筆頭とする王族と、グラームや高位聖職者からなる支配階級が存在し、その富は商人、職人、そして大多数を占める農民からの税収によって支えられていました。また、アッバース1世の死後、後継のシャーたちの中には、非イスラーム教徒に対する不寛容な政策をとる者も現れ、社会の緊張を高めることもありました。
それでもなお、17世紀のイスファハーンが、強力な中央集権体制と国家主導の商業活動によって、空前の経済的繁栄を謳歌し、多様な文化が交差するダイナミックな社会を形成していたことは間違いありません。その繁栄の記憶は、今なお残る壮麗な建築群の中に深く刻み込まれています。
サファヴィー朝の衰退とイスファハーンの悲劇
「世界の半分」とまで謳われたイスファハーンの栄華は、永遠には続きませんでした。17世紀後半からサファヴィー朝は徐々に衰退の兆しを見せ始め、18世紀初頭には、その輝きは悲劇的な終焉を迎えます。
衰退の原因
サファヴィー朝の衰退には、複数の要因が複雑に絡み合っていました。
第一に、君主の質の低下が挙げられます。偉大な王であったアッバース1世は、自らの息子たちを権力争いの脅威と見なし、盲目にしたり殺害したりしました。その結果、彼の後を継いだシャーたちは、宮殿の奥深く(ハレム)で軟弱に育てられ、政治や軍事の経験に乏しい人物が多くなりました。彼らは国政に関心を示さず、奢侈や酒色にふけり、国家の統治は無能な廷臣や宦官の手に委ねられるようになりました。
第二に、経済の停滞です。アッバース1世が築いた国家主導の貿易システムは、彼の死後、次第に機能不全に陥りました。ヨーロッパにおける海上交易路の発達は、従来のシルクロードの重要性を相対的に低下させました。また、インドのムガル帝国やオスマン帝国との競争も激化し、ペルシャの主要な輸出品であった生糸の需要も変化していきました。国家の歳入は減少し、かつてのような大規模な公共事業や軍隊の維持が困難になりました。
第三に、軍事力の弱体化です。かつては恐れられたサファヴィー軍も、平和な時代が続いたことと、有能な指導者の不在により、その戦闘能力は著しく低下していました。特に、帝国の辺境地帯の防衛は疎かになっていました。
第四に、宗教的な不寛容の高まりです。アッバース1世の死後、シーア派の聖職者たちの政治的影響力が強まり、スンナ派イスラーム教徒や、キリスト教徒、ユダヤ教徒といった非シーア派の住民に対する迫害が激化しました。これは、帝国内の結束を弱め、多くの人々の不満を増大させる結果となりました。
アフガンによる侵攻とイスファハーンの陥落
このような衰退の状況下で、サファヴィー朝に最後のとどめを刺したのは、東方の辺境からの侵略者でした。当時サファヴィー朝の支配下にあったアフガニスタンのカンダハール地方で、ギルザイ部族のアフガン人(現在のパシュトゥーン人)が、宗教的迫害と重税に反発して反乱を起こしました。
1722年、ミール・マフムード・ホータキーに率いられたアフガン軍は、サファヴィー軍の抵抗を打ち破りながらイラン高原を西進し、ついに首都イスファハーンを包囲しました。当時のシャーであったスルターン・フサインは無能であり、有効な対策を講じることができませんでした。数ヶ月にわたる過酷な包囲戦の末、イスファハーン市内では深刻な飢饉が発生し、人々は犬や猫、さらには人肉まで食べるという凄惨な状況に陥りました。
1722年10月、スルターン・フサインはついに降伏し、自らの手でシャーの王冠をミール・マフムードに渡しました。これにより、事実上サファヴィー朝は崩壊しました。アフガンによる占領下で、イスファハーンは徹底的な略奪と破壊に見舞われました。多くの王族や貴族が虐殺され、壮麗な宮殿や庭園は荒廃し、かつて「世界の半分」と称された都は、その輝きを完全に失いました。
この悲劇的な出来事は、イスファハーンの黄金時代の終わりを告げるものでした。その後、ナーディル・シャーによってアフガン勢力は駆逐されますが、イスファハーンが再びペルシャの首都として、かつてのような中心的役割を果たすことはありませんでした。しかし、破壊を免れたモスクや宮殿、橋は、サファヴィー朝が築いた栄光の時代の記憶を、今なお静かに語り継いでいます。
イスファハーンの不滅の遺産
サファヴィー朝時代のイスファハーンは、一人の傑出した君主、シャー・アッバース1世の壮大なビジョンによって創造された、理想都市の実現でした。彼の先見性のある都市計画は、政治、宗教、経済という国家の三大要素を、ナクシェ・ジャハーン広場という一つの壮大な舞台装置の中に統合し、サファヴィー帝国の権威と繁栄を世界に示しました。
シャー・モスクの荘厳な青いドーム、シェイフ・ロトフォッラー・モスクの繊細な光の芸術、アーリー・カープー宮殿の権力のテラス、そしてグランド・バザールの尽きることのない活気。これら広場を囲む建築群は、それぞれがサファヴィー建築と芸術の頂点を極めながら、全体として完璧な調和を奏でています。さらに、ザヤンデ川に架かるスィー・オ・セ・ポルやハージュ橋は、インフラとしての機能性と市民の憩いの場としての役割を見事に融合させ、チェヘル・ソトゥーン宮殿の庭園と壁画は、地上の楽園を夢見た王たちの洗練された美意識を伝えています。
イスファハーンの栄光は、イスラーム文化の枠内にとどまるものではありませんでした。アッバース1世の現実主義的な政策は、アルメニア人キリスト教徒のコミュニティを市内に招き入れ、ヴァンク大聖堂に代表されるような文化の融合を生み出しました。ヨーロッパからの商人や使節が絶えず訪れる国際都市として、イスファハーンは多様な文化が交差し、刺激し合う、真のコスモポリタンでした。
この繁栄は、国家による経済の掌握と、シルク貿易の独占によって支えられ、細密画、陶芸、絨毯といった工芸の分野で比類なき芸術の開花を促しました。イスファハーンは、まさに帝国の富と才能が集中する「世界の工房」だったのです。
18世紀初頭のアフガン侵攻による悲劇的な破壊は、この黄金時代に終止符を打ちましたが、イスファハーンが残した遺産は決して消え去ることはありませんでした。その都市計画の思想と建築様式は、後のペルシャやムガル帝国の建築に大きな影響を与え続けました。そして何よりも、破壊を免れた壮麗な建築物群は、今日においても、訪れるすべての人々を魅了し、サファヴィー朝が到達した文化の高みを雄弁に物語っています。
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