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マルコ=ポーロとは わかりやすい世界史用語2068
著作名: ピアソラ
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探検の時代とヴェネツィアの商人

マルコ=ポーロ(1254年頃 - 1324年)は、中世ヨーロッパにおいて最も著名な旅行家の一人です。 彼の名は、アジア大陸を横断し、当時ヨーロッパ人にはほとんど知られていなかった中国(カタイ)やその他の地域を詳細に記録した『東方見聞録』(またの名を『世界の記述』または『イル・ミリオーネ』)によって、歴史に深く刻まれています。 ヴェネツィア共和国の商人として生まれた彼の生涯は、13世紀の世界、特にモンゴル帝国が築いた広大な交易網と文化交流の時代を象徴しています。
マルコ=ポーロが生きた時代は、ヨーロッパとアジアの関係が大きく変動した時期でした。モンゴル帝国は、チンギス=カンの孫であるクビライ=カンの治世下で最盛期を迎え、その広大な領土は東ヨーロッパから東アジアにまで及びました。 この「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」と呼ばれる時代は、比較的安全な交易路の確立を促し、東西間の人、物、思想の移動を活発化させました。 この歴史的背景の中で、マルコ=ポーロの父ニッコロと叔父マッフェオは、すでにアジアへの交易の旅を経験していました。 彼らの冒険心と商業的野心は、若きマルコを未知の世界へと導く原動力となったのです。
マルコ=ポーロの旅は、単なる個人的な冒険にとどまらず、ヨーロッパ人の世界観に大きな影響を与えました。 彼がヨーロッパにもたらした情報は、アジアの地理、文化、富、そしてモンゴル帝国の統治システムに関するものであり、それまでの断片的で伝説に満ちた知識を、より具体的で詳細なものへと変えました。 彼が記述した紙幣、石炭の利用、整備された駅伝制度などは、当時のヨーロッパ人にとっては驚くべき革新でした。



ポーロ家の起源と若きマルコのヴェネツィアでの生活

マルコ=ポーロの物語は、13世紀の海洋国家ヴェネツィア共和国から始まります。 1254年頃に生まれたとされる彼の正確な生年月日や出生地については、確実な記録は残っていません。 一般的にはヴェネツィア生まれとされていますが、彼の家族が交易の拠点を持っていたダルマチア沿岸のコルチュラ島で生まれたという説も存在します。 彼の家系であるポーロ家は、ヴェネツィアの裕福な商人階級に属していました。 彼の祖父アンドレア・ポーロはサン・フェリーチェ教区に居住し、3人の息子、マッフェオ、もう一人のマルコ、そしてマルコの父となるニッコロがいました。 ポーロ家は、東方との交易に従事することで富と名声を築き上げていました。
マルコの幼少期は、父親の不在の中で過ぎ去りました。彼の父ニッコロと叔父マッフェオは、マルコが生まれる前年の1253年頃に、長期にわたる交易の旅に出発していました。 彼らはまず、第四次十字軍以降、ヴェネツィアが強い影響力を持っていたコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に数年間滞在しました。 しかし、1260年頃、ビザンツ帝国によるコンスタンティノープル奪還の動きを予見した兄弟は、政治的な変動を察知し、資産を宝石に換えて東方へと向かいました。 この決断が、彼らをモンゴル帝国の中心部へと導くことになります。
一方、ヴェネツィアに残されたマルコは、幼い頃に母親を亡くし、叔母と叔父によって育てられました。 商人の息子として、彼は実践的な教育を受けたと推測されます。 これには、外国通貨の知識、商品の鑑定、貨物船の取り扱いといった商業実務が含まれていました。 また、イタリア語やフランス語などの言語にも通じていたと考えられていますが、当時の学問の中心であったラテン語はほとんど、あるいは全く学ばなかったとされています。 このような商業に特化した教育は、彼が後にクビライ・カンの下で重用される上で、実践的な知識と言語能力という形で役立つことになります。
マルコが15歳になった1269年、父ニッコロと叔父マッフェオがヴェネツィアに帰還しました。 この時、マルコは初めて父親と顔を合わせることになります。 兄弟は、東方への旅の途中でモンゴル帝国の皇帝クビライ・カンに謁見し、皇帝からローマ教皇への使者としての役割を託されていました。 クビライ・カンは、キリスト教と西方の科学について教えることができる100人の学識ある人物を派遣するよう教皇に要請する書簡を兄弟に託したのです。 しかし、彼らがヴェネツィアに戻ったとき、教皇クレメンス4世は1268年に逝去しており、後継者がまだ選出されていない状態でした。
教皇の選出を待つ間、ニッコロとマッフェオはヴェネツィアに滞在しました。 この期間は、若きマルコにとって、父や叔父からアジアでの驚くべき体験談を聞く貴重な機会となったことでしょう。彼らが語る、広大なモンゴル帝国の様子や、壮麗なクビライ・カンの宮廷の話は、マルコの冒険心と未知の世界への好奇心を大いに刺激したに違いありません。 そして1271年、新しい教皇の選出を待ちきれなくなったポーロ兄弟は、17歳になったマルコを伴い、再びアジアへと旅立つことを決意します。 これが、マルコ=ポーロの24年間に及ぶ壮大な旅の始まりでした。

父と叔父との最初の旅

1271年、17歳のマルコ=ポーロは、父ニッコロと叔父マッフェオと共に、ヴェネツィアからアジア大陸の奥深くを目指す壮大な旅に出発しました。 彼らの旅の目的は、単なる商業活動にとどまらず、モンゴル帝国の皇帝クビライ・カンから託された使命を果たすことでした。 クビライ・カンは、ヨーロッパの宗教と科学を伝えるために100人のキリスト教の賢者を派遣するようローマ教皇に要請しており、ポーロ兄弟はその返書を届ける役割を担っていました。
一行はまず、ヴェネツィアから船で地中海を東に進み、十字軍国家の拠点であったアッカ(現在のイスラエル)に上陸しました。 アッカで、彼らは教皇使節であったテオバルド・ヴィスコンティと面会し、クビライの要請について報告しました。 当時、教皇の座は空位のままでしたが、ヴィスコンティはポーロ家の使命の重要性を理解し、彼らにクビライ・カンへの書簡を託しました。 興味深いことに、ポーロ家が旅を続けた後、このテオバルド・ヴィスコンティこそが新しい教皇グレゴリウス10世として選出されることになります。教皇は、ポーロ家の旅の途中に使者を送り、正式な信任状と贈り物、そして賢者の代わりとして2人の修道士を同行させました。 しかし、この2人の修道士は、旅の途中で戦争地域に差し掛かると、その過酷さと危険を恐れてすぐに引き返してしまいました。
ポーロ一行は、アッカから陸路で東へと進みました。 彼らの旅路は、後に「シルクロード」として知られる古代の交易路をたどるものでした。 彼らはラクダに乗り、ペルシャ(現在のイラン)の港町ホルムズを目指しました。 当初はホルムズから船で直接中国へ向かう計画でしたが、そこで見た船の耐航性に不安を感じ、再び陸路を進むことを決意します。 この決断により、彼らは中央アジアの過酷な自然環境を乗り越えていくことになりました。
旅は、アルメニア、ペルシャ、アフガニスタンといった地域を通過し、パミール高原の険しい山々を越えるものでした。 彼らは旅の途中で商人の隊商に加わりましたが、砂嵐に乗じて襲撃してくる盗賊に遭遇するなど、数々の危険に見舞われました。 マルコは後に、この旅で目にした様々な土地の風習、宗教、経済について詳細に記録しています。 例えば、ペルシャでは「砂漠の霊」と呼ばれる現象や、中央アジアの山岳地帯では、その寒さから火がつきにくく、緑色の石(おそらくアスベスト)が燃えるという不思議な光景について記述しています。
ゴビ砂漠のような広大な砂漠地帯を横断し、幾多の困難を乗り越えた末、ヴェネツィアを出発してから約3年半後の1275年頃、ポーロ一行はついにクビライ・カンの夏の都、上都(ザナドゥ)に到着しました。 この時、マルコは21歳になっていました。 彼らはクビライ・カンに温かく迎えられ、教皇からの書簡とエルサレムの聖墳墓教会から持参した聖油を献上しました。 クビライは、特に若きマルコに強い関心を示しました。マルコの知性、謙虚さ、そして新しいことを学ぶ意欲に感銘を受けた皇帝は、彼を自らの宮廷に仕えさせることを決めたのです。
この長い旅路は、マルコ=ポーロにとって、単なる移動以上の意味を持っていました。それは、ヨーロッパとは全く異なる文化、社会、そして広大な世界を直接体験する過程であり、彼が後に『東方見聞録』を著すための膨大な知識と経験の源泉となりました。 彼の驚くべき記憶力と観察眼は、この旅を通じて養われ、ヨーロッパ人の世界観を根底から覆すことになる詳細な記録を生み出すための礎となったのです。

クビライ=カンの宮廷にて:モンゴル帝国での17年間

1275年頃、クビライの夏の都、上都に到着したマルコ=ポーロは、父ニッコロ、叔父マッフェオと共に、モンゴル帝国の皇帝から歓待を受けました。 クビライ・カンは、特に若く知的なマルコに強い関心を示し、彼を自らの宮廷に留め置くことを決めました。 これから始まる約17年間、マルコはモンゴル帝国の行政官、そして皇帝の特使として、ヨーロッパ人には想像もつかないような経験を積むことになります。
クビライは、チンギス=カンの孫であり、1271年に国号を「元」と定め、中国全土を支配下に置いた最初の非漢民族の皇帝でした。 彼の帝国は広大で、多様な民族と文化を内包していました。 統治にあたり、クビライは被征服民の文化や制度を尊重し、有能な人材であれば出自を問わず登用する実用的な政策をとっていました。 マルコ=ポーロが重用されたのも、このような背景があったからです。マルコは複数の言語を操る能力があり、その鋭い観察眼と記憶力は、皇帝にとって非常に価値のあるものでした。
クビライはマルコを皇帝の特使に任命し、帝国内の様々な地域へ外交使節として派遣しました。 マルコの任務は、現在のミャンマー(ビルマ)、インド、チベット、ベトナム、スリランカ、インドネシアなど、ヨーロッパ人がほとんど足を踏み入れたことのない遠隔地にまで及びました。 これらの旅において、マルコは単に外交任務をこなすだけでなく、訪れた土地の風俗、習慣、産物、宗教などを詳細に観察し、帰還後にそれらを興味深い物語として皇帝に報告しました。 クビライは、紋切り型の公式報告よりも、マルコが語る生き生きとした見聞を大いに楽しんだと言われています。
マルコは、その功績によって昇進を重ね、中国のある都市の総督を務めたり、枢密院の役人に任命されたり、さらには塩税の査察官として働いたこともあったとされています。 彼自身の記述によれば、彼は皇帝の絶対的な信頼を得て、帝国の行政に深く関与しました。 例えば、彼は揚州の長官を3年間務めたと記しています。 皇帝はマルコに、モンゴル帝国の権威を示す黄金の牌符を与えました。これにより、マルコは帝国内のどこへでも安全に旅をすることができ、駅伝制度(ジャムチ)を利用して馬や食料、宿泊施設を提供されました。
マルコが仕えた17年間は、彼にとってモンゴル帝国と中国社会の深部を垣間見る機会となりました。 彼は、ヨーロッパではまだ知られていなかった多くの事柄について記録しています。例えば、石炭が燃料として一般的に使われていること、紙幣が通貨として流通していること、整備された郵便制度が存在すること、そして巨大な都市の繁栄ぶりなどです。 特に、彼が「キンザイ」と呼んだ杭州の壮大さや、首都である大都(現在の北京)の計画的な都市設計についての記述は、当時のヨーロッパの都市とは比較にならない規模と洗練度を伝えています。
しかし、ポーロ一家の成功は、同時に彼らを故郷から遠ざけることにもなりました。年月が経つにつれ、彼らはヴェネツィアへの帰郷を望むようになります。 しかし、クビライは有能な彼らを手放すことを渋りました。 ポーロ家は、高齢になったクビライが亡くなった場合、皇帝との緊密な関係ゆえに政敵から危険にさらされるのではないかと懸念していました。 帰国の機会が訪れたのは1291年頃のことでした。イル=ハン国(ペルシャを支配していたモンゴル系国家)の君主アルグンが、クビライの宮廷から妃としてモンゴルの皇女コカチンを迎えることになり、その皇女をペルシャまで安全に護送する任務をポーロ家が引き受けることになったのです。 陸路が戦争で危険だったため、一行は海路で向かうことになりました。クビライは、長年の功労に報い、ついに彼らの帰国を許可しました。 こうして、マルコ=ポーロのアジアでの長い滞在は終わりを告げ、故郷ヴェネツィアへの長い帰路が始まるのです。

ヴェネツィアへの長い帰路

約17年間にわたるクビライの宮廷での奉仕を終え、マルコ=ポーロ、父ニッコロ、叔父マッフェオは、ついに故郷ヴェネツィアへの帰路につきました。 彼らの帰還の旅は、モンゴルの皇女コカチンをペルシャのイル・ハン国の君主アルグン・カンのもとへ嫁がせるための護送任務を兼ねていました。 この任務が、彼らにとって長年叶わなかった帰国の絶好の機会となったのです。
1291年か1292年頃、一行は中国南部の港湾都市、泉州(ザイトン)から船団を組んで出発しました。 船団は14隻のジャンク船で構成され、皇女とその随員、そしてポーロ家を含め、数百人が乗り込んでいたとされています。 彼らの航路は、陸路で来た時とは異なり、南シナ海からインド洋を横断する壮大な海の旅でした。
この航海は困難を極めました。 マルコの記述によると、ペルシャに到着するまでの約2年間で、病気や悪天候などにより、乗員乗客のうち約600人が命を落としたとされています。 死因については具体的に記されていませんが、壊血病やコレラといった病気、海賊の襲撃、あるいは嵐による遭難などが推測されています。 船団は、スマトラ島やセイロン島(現在のスリランカ)、インドの海岸沿いなどを経由しながら、ゆっくりと西へ進みました。 マルコは、これらの寄港地についても詳細な観察記録を残しており、香辛料の産地、現地の宗教(仏教やヒンドゥー教)、奇妙な動植物、そして人々の生活様式などを記述しています。
長い航海の末、一行はようやくペルシャ湾のホルムズに到着しました。 しかし、彼らが到着したとき、皇女が嫁ぐはずだったアルグンはすでに亡くなっていました。 最終的に、皇女コカチンはアルグンの息子であるガザン・カンと結婚することになりました。 ポーロ家は皇女を無事に引き渡すという任務を果たした後、イル=ハン国の宮廷に数ヶ月滞在した可能性があります。
ペルシャを陸路で出発した彼らは、黒海沿岸のトレビゾンド(現在のトルコ)にたどり着きました。しかし、ここで彼らは不運に見舞われます。キリスト教圏に入った途端、長年の奉仕と交易で得た富の大部分を奪われてしまったのです。 その後、さらに旅を続け、コンスタンティノープルを経由して、ついに1295年の冬、故郷ヴェネツィアに帰還しました。
彼らがヴェネツィアを離れてから、実に24年の歳月が流れていました。 ぼろぼろの服をまとい、タタール風の風貌になった彼らを、最初は誰もポーロ家の者だと信じることができませんでした。親族でさえ、彼らが本人であるか疑ったほどです。しかし、彼らが旅の衣装の縫い目を解くと、中からルビー、サファイア、ダイヤモンドといった無数の宝石が転がり落ち、その場の全員が驚嘆したという逸話が伝えられています。彼らは、アジアで得た莫大な富を、追いはぎなどから守るために衣服に隠して持ち帰っていたのです。
こうして、マルコ=ポーロの人生の最も重要な一章であるアジアでの大旅行は幕を閉じました。彼らが持ち帰ったのは、金銀財宝だけではありませんでした。ヨーロッパ人の知識の地平を大きく広げることになる、驚異に満ちた物語と経験だったのです。

ジェノヴァとの戦争と『東方見聞録』の誕生

1295年にヴェネツィアに帰還したマルコ=ポーロは、24年ぶりに故郷の土を踏みました。 彼らが持ち帰った富とアジアでの驚くべき体験談は、ヴェネツィア市民の間で大きな話題となりました。 しかし、彼の平穏な生活は長くは続きませんでした。当時の地中海は、海洋国家ヴェネツィアとその最大のライバルであるジェノヴァ共和国との間で、商業的・軍事的な覇権を巡る激しい争いが繰り広げられていたのです。
ヴェネツィアとジェノヴァの対立は、13世紀半ばから続いており、地中海東部や黒海の交易路の支配を巡って何度も武力衝突を繰り返していました。 1294年には新たな戦争(第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争)が勃発しており、マルコが帰国したときも、両国の関係は緊迫した状態にありました。 愛国心旺盛なヴェネツィア市民として、また裕福な商人として、マルコもこの戦争に関わることになります。彼は自らガレー船を武装させ、ヴェネツィア海軍の一員として参戦したと考えられています。
1298年、アドリア海で起きたとされるクルツォラ(現在のコルチュラ島)の海戦で、マルコ=ポーロはジェノヴァ軍の捕虜となってしまいました。 この敗戦により、彼はジェノヴァの牢獄に送られることになります。 しかし、この投獄という不運が、結果的に歴史的な書物を生み出すきっかけとなりました。
牢獄で、マルコはピサ出身のロマンス作家、ルスティケロ・ダ・ピサ(通称ルスティケッロ)という同房者と出会います。 ルスティケロは、アーサー王伝説などの騎士道物語を専門とする著述家でした。 マルコは、牢獄での退屈を紛らわすためか、あるいは自らの類まれな体験を記録に残したいという思いからか、アジアでの24年間にわたる旅の物語をルスティケロに語り始めました。 ルスティケロは、マルコが口述する驚異的な話を、当時の北イタリアで流行していたフランス語とイタリア語が混ざった言語(フランコ・イタリア語)で書き留めていきました。
こうして誕生したのが、『世界の記述』、後に『東方見聞録』として知られることになる書物です。 「イル・ミリオーネ」という通称は、マルコがクビライ・カンの富や帝国の規模を語る際に「百万」という単位を頻繁に使ったことから、ヴェネツィア市民が彼につけたあだ名に由来するとも、あるいはポーロ家の一族の古い家名「エミリオーネ」が短縮されたものだとも言われています。
この書物は、マルコ自身の旅の記録だけでなく、ルスティケロが聞き集めた他の逸話や、当時の中国に関する時事的な情報も取り入れられて構成されたと考えられています。 本書は4部構成で、第1部では中東から中央アジアに至る往路、第2部では中国とクビライ・カンの宮廷、第3部では日本、インド、東南アジアなどの沿岸地域、そして第4部ではモンゴル人同士の戦争やロシアなど北方地域について記述しています。
1299年、ヴェネツィアとジェノヴァの間に和平条約が結ばれ、マルコ=ポーロは1年余りの捕虜生活から解放されました。 彼はヴェネツィアに戻り、一冊の書物と共に、新たな人生を歩み始めることになります。この書物が、やがてヨーロッパ中の人々の想像力をかき立て、未来の探検家たちに大きな影響を与えることになるとは、当時の彼自身も予想していなかったかもしれません。

晩年、死、そして遺産

1299年にジェノヴァの牢獄から解放され、ヴェネツィアに戻ったマルコ=ポーロは、当時45歳になっていました。 彼はその後、故郷を離れることは二度となかったとされています。 帰国後の彼は、父や叔父と共に商業活動を再開し、アジアから持ち帰った宝石などの資産を元手に、再び裕福な商人としての地位を確立しました。 ポーロ家はリアルト地区のビジネス街に邸宅を構え、マルコはヴェネツィア社会で尊敬される一員となりました。
1300年頃、マルコはドナータ・バドエルという女性と結婚しました。 彼女もまた、ヴェネツィアの有力な商人階級の家の出身でした。 二人の間には、ファンティーナ、ベッレーラ、モレータという3人の娘が生まれました。 彼の晩年に関する詳しい記録は多くありませんが、商人としての活動を続け、時には親族との間で訴訟を起こすなど、比較的穏やかながらも活動的な日々を送っていたことが、いくつかの法的文書からうかがえます。
マルコ=ポーロは1324年1月、70歳近くで病に倒れ、その死期を悟りました。 彼は公証人であるサン・プロコロ教会の司祭ジョヴァンニ・ジュスティニアーニを呼び、遺言書を作成させました。 遺言書の中で、彼は妻のドナータと3人の娘を共同の遺産執行人に指名しました。 また、法律で定められた教会への遺産の分け前に加え、自らが埋葬されることを希望したサン・ロレンツォ教会にも寄付を行うよう命じています。 注目すべきは、彼が「タタール人の奴隷」を解放するよう遺言している点です。 この奴隷は、彼が東方から連れ帰った人物であった可能性が示唆されています。
有名な逸話として、死の床にあったマルコに対し、友人たちが『東方見聞録』で語った「作り話」を撤回するよう勧めたというものがあります。 これに対し、マルコは「私は、自分が見たものの半分も語っていない」と答えたと伝えられています。 この言葉は、彼の体験がいかに驚異的であったか、そして彼の記録が決して単なる空想の産物ではなかったという自負を物語っています。
マルコ=ポーロは1324年1月8日から9日にかけての間に亡くなったとされ、サン・ロレンツォ教会に埋葬されました。
マルコ=ポーロの最大の遺産は、言うまでもなく『東方見聞録』です。 この書物は、彼自身の存命中に多くのヨーロッパ言語に翻訳され、写本として広く流布しました。 印刷技術が発明されると、1477年には最初の印刷版が出版され、さらに多くの人々に読まれるようになりました。
『東方見聞録』は、ヨーロッパ人のアジアに対する認識を根本的に変えました。 それまで伝説や噂に包まれていた東方の世界について、地理、文化、産物、政治体制など、具体的で詳細な情報を提供したのです。 彼が記述したモンゴル帝国の富と力、広大な都市、進んだ技術(紙幣や石炭など)は、ヨーロッパ人の好奇心と探求心を強く刺激しました。
特に、後の探検家たちに与えた影響は計り知れません。クリストファー・コロンブスは、アジアへの西回り航路を開拓しようとした際、『東方見聞録』を携行し、その余白に多くの書き込みをしていたことが知られています。 コロンブスは、マルコ=ポーロが記述した黄金の国ジパング(日本)やカタイ(中国)に到達することを夢見ていたのです。
もちろん、『東方見聞録』の記述の正確性については、当時から現代に至るまで多くの議論があります。 万里の長城や纏足、漢字といった、当時の中国を象徴する事柄についての言及がないことなどから、彼が本当に中国まで到達したのかを疑う声も存在します。 しかし、多くの研究者は、彼が記述した地名や出来事が他の史料と一致することや、彼の立場(外国人官僚)からすれば言及しないのが自然な事柄もあることなどを指摘し、その記述の基本的な信憑性を支持しています。
マルコ=ポーロは一人の商人でありながら、その類まれな旅と記録によって、中世ヨーロッパとアジアを結びつけ、大航海時代の到来を促す上で重要な役割を果たした人物です。

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