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四国艦隊下関砲撃事件とは?賠償金の行方と長州藩の敗北をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】 |
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著作名:
かわちゃん
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四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が、長州藩の砲台を攻撃した事件です。元治元年8月5日(1864年)に始まり、長州藩の砲台は三日間で破壊・占領されました。この記事では、事件の原因と経過、賠償金の行方、敗れた長州藩のその後を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
四国艦隊下関砲撃事件とは、一言でいえば、攘夷を実行した長州藩が、欧米の連合艦隊に敗れ、攘夷をやめて倒幕へ向かうきっかけになった事件です。
禁門の変にも敗れていたため、幕府の長州征討を受け、いったん幕府に従う一派が藩の実権を握りました。しかしこの戦争に敗れた長州藩は、攘夷は無理だと悟ります。高杉晋作らの挙兵で倒幕派が主導権を取った後、軍備の西洋化を進め、薩長同盟を結び、明治維新へとつながります。
ここまでが1分の要約です。ここからは、四国艦隊下関砲撃事件をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
孝明天皇は外国を嫌い、幕府に攘夷(外国を追い払うこと)を求めていました。将軍の徳川家茂は朝廷に、文久3年5月10日(1863年)を攘夷を実行する期日にすると約束します。ただ幕府は、これを実際に戦う意味では受け止めていませんでした。
ところが長州藩は、関門海峡(下関海峡)に砲台を整え、軍艦を配備して海峡を封鎖します。約束の日から、5月10日にアメリカの商船、23日にフランスの艦、26日にオランダの艦を、次々に砲撃しました。同じ文久3年の6月には、アメリカとフランスの軍艦が報復に現れ、長州藩の軍艦や砲台に大きな被害を与えます。それでも長州藩は、身分を問わず兵を募る奇兵隊を結成するなど軍備を強め、封鎖を続けました。
砲撃を受けたのは、アメリカ・フランス・オランダの船です。イギリスの船は、直接の被害を受けていませんでした。それでも封鎖が続けば、各国の貿易が滞ります。イギリス公使のオールコックは、列強の軍事力を示して貿易を取り戻すとともに、攘夷が続いて幕府の開国政策が後退することを恐れました。フランス・オランダ・アメリカに呼びかけて、連合艦隊を組みます。
艦隊は17隻で、内訳はイギリス9隻、フランス3隻、オランダ4隻、アメリカ1隻です。出発の前、四か国は幕府に、20日以内に封鎖が解かれなければ武力に訴えると通告しました。
長州藩では、藩の密留学生として、伊藤博文(当時は伊藤俊輔)と井上馨(当時は井上聞多)がイギリスにいました。二人は、長州藩が外国船を砲撃したと知って、急いで帰国します。イギリスの国力の大きさを知っていた二人は、藩の首脳に戦いを避けるよう説きましたが、藩では強硬な意見が中心で、聞き入れられませんでした。
元治元年8月5日、連合艦隊は前田・壇ノ浦の砲台などに激しい砲撃を加えます。さらに陸戦隊(上陸して戦う部隊)を送り込みます。艦砲射撃の火力は圧倒的で、長州藩の砲台は三日間で破壊され、占領されました。
大敗した長州藩は休戦を申し入れ、講和の使者に高杉晋作を起用しました。彼は当時、藩の処分を受けて謹慎中でした。家老の養子「宍戸刑馬」と名乗って、連合艦隊の司令官との交渉にのぞみます。
講和の条件は、下関海峡を外国船が自由に通行できること、外国船に石炭や食料などを売ること、下関の砲台を撤去することなどです。賠償金は300万ドルとされました。長州藩は、一連の砲撃は幕府が朝廷に約束した攘夷の命令に従っただけだと主張します。そのため賠償金は、のちに連合国が幕府へ請求することになりました。
幕府は150万ドルを支払い、残りは明治新政府が分割で払って、明治7年(1874年)までに支払いが終わりました。
長州藩は、攘夷では勝てないと知り、軍備の西洋化を進めます。ただ、すぐに倒幕へ向かったわけではありません。
元治元年7月の禁門の変にも敗れていた長州藩は、幕府の長州征討(第一次)を受けました。藩では保守的な一派が実権を握り、禁門の変の責任者を処罰して、幕府に恭順(逆らわずに従うこと)の意を示します。これに不満を抱いた高杉晋作が、元治元年の暮れに奇兵隊などを率いて挙兵し、保守的な一派を退けました。翌慶応元年にかけて、倒幕派が藩の主導権を握ります。
その後、長州藩は坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と薩長同盟を結びました。慶応2年1月(1866年)のことです。
この事件の呼び名は、一つに定まっていません。元治元年の戦いを四国艦隊下関砲撃事件、前年の砲撃を下関事件と区別して呼ぶ場合が多く、両方を合わせて「下関戦争」と呼ぶこともあります。元治元年の戦いは「馬関戦争」とも呼ばれます。「四国」は日本の四国地方ではなく、四つの国という意味です。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる四国艦隊下関砲撃事件」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・長州藩は、なぜ外国の船を砲撃したのか
・砲撃されていないイギリスが、なぜ連合艦隊の中心になったのか
・賠償金はいくらで、誰に請求されたのか
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・長州藩は、なぜ外国の船を砲撃したのか
・砲撃されていないイギリスが、なぜ連合艦隊の中心になったのか
・賠償金はいくらで、誰に請求されたのか
1分でわかる四国艦隊下関砲撃事件
四国艦隊下関砲撃事件とは、一言でいえば、攘夷を実行した長州藩が、欧米の連合艦隊に敗れ、攘夷をやめて倒幕へ向かうきっかけになった事件です。
攘夷の期限に、長州藩が外国の船を砲撃した
攘夷とは、外国を追い払う考え方です。幕府が孝明天皇に「攘夷実行を行う」と奏上していた文久3年5月10日(1863年)から、長州藩は、関門海峡を通るアメリカ・フランス・オランダの船を砲撃しました。アメリカとフランスの報復を受けても、海峡の封鎖を続けます。
攘夷とは、外国を追い払う考え方です。幕府が孝明天皇に「攘夷実行を行う」と奏上していた文久3年5月10日(1863年)から、長州藩は、関門海峡を通るアメリカ・フランス・オランダの船を砲撃しました。アメリカとフランスの報復を受けても、海峡の封鎖を続けます。
イギリスが中心になり、17隻の艦隊が下関を攻撃した
封鎖で貿易が滞ったため、砲撃を受けていないイギリスが、公使のオールコックを中心に、四か国17隻の艦隊を組みました。元治元年8月5日に戦いが始まり、長州藩の砲台は三日間で破壊・占領されます。
封鎖で貿易が滞ったため、砲撃を受けていないイギリスが、公使のオールコックを中心に、四か国17隻の艦隊を組みました。元治元年8月5日に戦いが始まり、長州藩の砲台は三日間で破壊・占領されます。
講和と賠償金300万ドル
講和にあたったのは高杉晋作で、「宍戸刑馬」と名乗って交渉しました。海峡の通行を認め、砲台を撤去することなどで合意します。賠償金は300万ドルとされますが、支払うことになったのは長州藩ではなく幕府でした。
講和にあたったのは高杉晋作で、「宍戸刑馬」と名乗って交渉しました。海峡の通行を認め、砲台を撤去することなどで合意します。賠償金は300万ドルとされますが、支払うことになったのは長州藩ではなく幕府でした。
禁門の変にも敗れていたため、幕府の長州征討を受け、いったん幕府に従う一派が藩の実権を握りました。しかしこの戦争に敗れた長州藩は、攘夷は無理だと悟ります。高杉晋作らの挙兵で倒幕派が主導権を取った後、軍備の西洋化を進め、薩長同盟を結び、明治維新へとつながります。
おまけトリビア
300万ドルの賠償金のうち、アメリカが受け取った分は、のちに日本へ返されました。明治16年(1883年)のことで、返還金は横浜港の整備などに使われたと伝えられます。
300万ドルの賠償金のうち、アメリカが受け取った分は、のちに日本へ返されました。明治16年(1883年)のことで、返還金は横浜港の整備などに使われたと伝えられます。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、四国艦隊下関砲撃事件をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■事件の背景は、攘夷の期限と長州藩の砲撃
孝明天皇は外国を嫌い、幕府に攘夷(外国を追い払うこと)を求めていました。将軍の徳川家茂は朝廷に、文久3年5月10日(1863年)を攘夷を実行する期日にすると約束します。ただ幕府は、これを実際に戦う意味では受け止めていませんでした。
ところが長州藩は、関門海峡(下関海峡)に砲台を整え、軍艦を配備して海峡を封鎖します。約束の日から、5月10日にアメリカの商船、23日にフランスの艦、26日にオランダの艦を、次々に砲撃しました。同じ文久3年の6月には、アメリカとフランスの軍艦が報復に現れ、長州藩の軍艦や砲台に大きな被害を与えます。それでも長州藩は、身分を問わず兵を募る奇兵隊を結成するなど軍備を強め、封鎖を続けました。
■なぜイギリスが連合艦隊の中心になったのか
砲撃を受けたのは、アメリカ・フランス・オランダの船です。イギリスの船は、直接の被害を受けていませんでした。それでも封鎖が続けば、各国の貿易が滞ります。イギリス公使のオールコックは、列強の軍事力を示して貿易を取り戻すとともに、攘夷が続いて幕府の開国政策が後退することを恐れました。フランス・オランダ・アメリカに呼びかけて、連合艦隊を組みます。
艦隊は17隻で、内訳はイギリス9隻、フランス3隻、オランダ4隻、アメリカ1隻です。出発の前、四か国は幕府に、20日以内に封鎖が解かれなければ武力に訴えると通告しました。
■伊藤博文と井上馨の帰国、そして三日間の戦い
長州藩では、藩の密留学生として、伊藤博文(当時は伊藤俊輔)と井上馨(当時は井上聞多)がイギリスにいました。二人は、長州藩が外国船を砲撃したと知って、急いで帰国します。イギリスの国力の大きさを知っていた二人は、藩の首脳に戦いを避けるよう説きましたが、藩では強硬な意見が中心で、聞き入れられませんでした。
元治元年8月5日、連合艦隊は前田・壇ノ浦の砲台などに激しい砲撃を加えます。さらに陸戦隊(上陸して戦う部隊)を送り込みます。艦砲射撃の火力は圧倒的で、長州藩の砲台は三日間で破壊され、占領されました。
■講和と賠償金、300万ドルは誰に請求されたのか
大敗した長州藩は休戦を申し入れ、講和の使者に高杉晋作を起用しました。彼は当時、藩の処分を受けて謹慎中でした。家老の養子「宍戸刑馬」と名乗って、連合艦隊の司令官との交渉にのぞみます。
講和の条件は、下関海峡を外国船が自由に通行できること、外国船に石炭や食料などを売ること、下関の砲台を撤去することなどです。賠償金は300万ドルとされました。長州藩は、一連の砲撃は幕府が朝廷に約束した攘夷の命令に従っただけだと主張します。そのため賠償金は、のちに連合国が幕府へ請求することになりました。
幕府は150万ドルを支払い、残りは明治新政府が分割で払って、明治7年(1874年)までに支払いが終わりました。
■敗れた長州藩のその後、攘夷をやめ倒幕へ
長州藩は、攘夷では勝てないと知り、軍備の西洋化を進めます。ただ、すぐに倒幕へ向かったわけではありません。
元治元年7月の禁門の変にも敗れていた長州藩は、幕府の長州征討(第一次)を受けました。藩では保守的な一派が実権を握り、禁門の変の責任者を処罰して、幕府に恭順(逆らわずに従うこと)の意を示します。これに不満を抱いた高杉晋作が、元治元年の暮れに奇兵隊などを率いて挙兵し、保守的な一派を退けました。翌慶応元年にかけて、倒幕派が藩の主導権を握ります。
その後、長州藩は坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と薩長同盟を結びました。慶応2年1月(1866年)のことです。
■史実と学説
この事件の呼び名は、一つに定まっていません。元治元年の戦いを四国艦隊下関砲撃事件、前年の砲撃を下関事件と区別して呼ぶ場合が多く、両方を合わせて「下関戦争」と呼ぶこともあります。元治元年の戦いは「馬関戦争」とも呼ばれます。「四国」は日本の四国地方ではなく、四つの国という意味です。
賠償金については、講和の条件の一つとする説明と、のちに幕府と列国の間で結ばれた協約とする説明があります。講和が成立した日も、資料によって異なり一致していません。
試験に出るポイント
四国艦隊下関砲撃事件は、1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃した事件です。前年の1863年に、長州藩が攘夷を実行して外国船を砲撃したことへの報復でした。賠償金は300万ドルとされ、請求を受けたのは幕府です。敗れた長州藩は攘夷をやめ、倒幕へ向かい、のちに薩長同盟を結びました。
四国艦隊下関砲撃事件は、1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃した事件です。前年の1863年に、長州藩が攘夷を実行して外国船を砲撃したことへの報復でした。賠償金は300万ドルとされ、請求を受けたのは幕府です。敗れた長州藩は攘夷をやめ、倒幕へ向かい、のちに薩長同盟を結びました。
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