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伊藤博文とは?攘夷の志士が初代内閣総理大臣になるまでをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】 |
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著作名:
かわちゃん
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伊藤博文(いとうひろぶみ)(1841〜1909年)は、日本で最初の内閣総理大臣です。若いころは長州藩で、外国を打ち払おうとする尊王攘夷運動に加わっていました。この記事では、その志士がどうやって明治維新にかかわり、なぜ初代総理に選ばれたのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段でまとめました。
伊藤博文とは、一言でいえば、攘夷の志士から開国派に転じて、最初の首相になった人物です。
彼は政府の中心にいて、しかも新しい制度づくりの当事者でした。これが、初代に選ばれた背景とされます。深掘りでは、この2点を経歴の事実から整理します。
ここからは、さらに詳しく解説します。
伊藤博文は1857年に松下村塾に入り、吉田松陰に学びました。その後、高杉晋作らと尊王攘夷運動に加わり、イギリス公使館の焼き打ちにも参加しています。吉田松陰は、若い彼を「周旋の才あり」、つまり人と人のあいだに立って話をまとめる才能がある、と評したと伝えられます。
転機は1863年のイギリス行きです。伊藤博文は藩の許可を得て井上馨らと渡英しましたが、当時は幕府が日本人の海外渡航を禁じていたため、形式的には密航の扱いでした。ロンドンで欧米の国力を目の当たりにして、攘夷に疑問を持つようになります。
長州藩は1863年に下関で外国船を砲撃していました。1864年、その報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が長州藩を攻撃する計画が持ち上がります。ロンドンでこれを知った彼は、留学を切り上げて急ぎ帰国しました。藩主らに開国への転換を説きましたが、受け入れられませんでした。やがて下関で戦争が始まり、長州藩は敗れます。講和の席では、彼が通訳を務めました。
そのころ藩内では、幕府に従う姿勢をとる藩の首脳に反対して、高杉晋作が挙兵しました。伊藤博文もこれに加わります。勝った高杉晋作らが藩の主導権を握ると、藩は倒幕へ向かいました。倒幕のなかで彼が担ったのは、おもに武器の購入や他藩との交渉です。
明治元年(1868年)、伊藤博文は新政府で、外国との交渉を担当する役職(外国事務掛)に就きます。1871年には、岩倉具視を代表とする使節団の副使として欧米を回りました。この旅で、大久保利通の信頼を得ています。
明治18年12月22日(1885年)、それまでの政府の仕組みだった太政官にかわって内閣制度が始まり、44歳の伊藤博文が最初の内閣総理大臣に就任しました。この人選の背景を、二つに整理します。
一つ目は、大久保利通のあとを継いで、政府の中心にいたことです。伊藤博文は岩倉使節団の旅で大久保利通の信頼を得て、帰国後はその片腕として働きました。1878年に大久保利通が暗殺されると、内務卿を継いで明治政府の中心人物になります。1881年の明治十四年の政変では、憲法の構想で対立した大隈重信らが政府を去りました。政府は1890年に国会を開くことも約束しています。この政変を通じて、伊藤博文は政府の最高指導者の立場を固めたとされます。
二つ目は、新しい制度づくりの当事者だったことです。1882年、彼は憲法を調べるためヨーロッパへ渡り、ドイツやオーストリアで学びました。帰国後の1884年には、宮中に制度取調局を置いて、憲法にもとづく政治へ移る準備を進めています。続く内閣制度の創設も、この流れのなかにあります。
首相の条件をめぐる逸話として、赤電報(外国から政府に届く電報)を読めない者は首相になれない、という言葉が伝わっています。英語ができた伊藤博文は、この条件に合う人物でした。
首相になった伊藤博文は、憲法の起草を進めました。1889年に発布された大日本帝国憲法は、ドイツの憲法を手本にした、君主の権限が強い憲法です。1900年には、立憲政友会をつくって初代総裁になりました。
晩年の伊藤博文は、1905年に初代の韓国統監となりました。韓国統監は、日露戦争後に日本が韓国に置いた統治機関の長官です。日本は韓国の外交権を握り、韓国を日本の保護下に置く保護国化を進めました。彼はその指揮にあたりましたが、韓国を日本に併合することには慎重だったといわれます。ただ、保護国化は韓国の主権を奪うものでした。その交渉は強圧的だったという見方もあります。
1909年(明治42年)10月26日、伊藤博文はロシアの大蔵大臣と会談するため、中国のハルビンを訪れました。そのハルビン駅で、韓国の独立運動家・安重根に暗殺されました。68歳でした。
伊藤博文は、1963年に発行が始まった千円札の肖像になりました。生家は貧しい農家でしたが、父が長州藩の下級武士の養子になったことで、彼自身も下級武士の身分を得ています。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる伊藤博文」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・攘夷の志士は、なぜ開国論者に変わったのか
・維新の動乱のなかで、伊藤博文は何をしていたのか
・なぜ伊藤博文が、初代内閣総理大臣になったのか
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・攘夷の志士は、なぜ開国論者に変わったのか
・維新の動乱のなかで、伊藤博文は何をしていたのか
・なぜ伊藤博文が、初代内閣総理大臣になったのか
1分でわかる伊藤博文
伊藤博文とは、一言でいえば、攘夷の志士から開国派に転じて、最初の首相になった人物です。
攘夷の志士から、開国論者へ
農民の子に生まれた伊藤博文は、のちに長州藩の下級武士の身分を得ます。松下村塾で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に加わって、イギリス公使館の焼き打ちにも参加しました。ところが1863年、井上馨らとイギリスへ密航します。そこで欧米の国力を知り、攘夷をやめて外国と交流する開国論に転じました。
農民の子に生まれた伊藤博文は、のちに長州藩の下級武士の身分を得ます。松下村塾で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に加わって、イギリス公使館の焼き打ちにも参加しました。ところが1863年、井上馨らとイギリスへ密航します。そこで欧米の国力を知り、攘夷をやめて外国と交流する開国論に転じました。
維新後は、新政府で外交の担い手に
帰国後は、長州藩で外国との交渉にあたり、倒幕運動にも加わります。明治政府ができると、ここでも外国との交渉を担当する役職に就きました。1871年には、岩倉具視を代表とする使節団の副使として欧米を回ります。この旅で、大久保利通の信頼を得ました。
帰国後は、長州藩で外国との交渉にあたり、倒幕運動にも加わります。明治政府ができると、ここでも外国との交渉を担当する役職に就きました。1871年には、岩倉具視を代表とする使節団の副使として欧米を回ります。この旅で、大久保利通の信頼を得ました。
大久保利通のあとを継ぎ、内閣制度をつくる
1878年に、内務省の長官(内務卿)を務めていた大久保利通が暗殺されます。伊藤博文がその職を継ぎ、政府の中心人物になりました。1882年には、憲法を調べるためヨーロッパへ渡りました。帰国後の明治18年12月22日(1885年)、それまでの政府の仕組みだった太政官にかわる内閣制度をつくります。そして歴代最年少の44歳で、初代内閣総理大臣に就任しました。
1878年に、内務省の長官(内務卿)を務めていた大久保利通が暗殺されます。伊藤博文がその職を継ぎ、政府の中心人物になりました。1882年には、憲法を調べるためヨーロッパへ渡りました。帰国後の明治18年12月22日(1885年)、それまでの政府の仕組みだった太政官にかわる内閣制度をつくります。そして歴代最年少の44歳で、初代内閣総理大臣に就任しました。
彼は政府の中心にいて、しかも新しい制度づくりの当事者でした。これが、初代に選ばれた背景とされます。深掘りでは、この2点を経歴の事実から整理します。
おまけトリビア
伊藤博文は、かつての千円札の肖像にもなっています。農民の子に生まれた人物が、お札の顔にまでなりました。
伊藤博文は、かつての千円札の肖像にもなっています。農民の子に生まれた人物が、お札の顔にまでなりました。
ここから深掘り
ここからは、さらに詳しく解説します。
■伊藤博文の生涯
| 年 | 出来事 |
| 1841年 | 周防国(現在の山口県)に農民の子として生まれる |
| 1863年 | 井上馨らとイギリスへ渡る |
| 1878年 | 大久保利通の暗殺後、内務卿を継ぐ |
| 1885年 | 内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任 |
| 1909年 | ハルビン駅で暗殺される |
■明治維新へのかかわり
伊藤博文は1857年に松下村塾に入り、吉田松陰に学びました。その後、高杉晋作らと尊王攘夷運動に加わり、イギリス公使館の焼き打ちにも参加しています。吉田松陰は、若い彼を「周旋の才あり」、つまり人と人のあいだに立って話をまとめる才能がある、と評したと伝えられます。
転機は1863年のイギリス行きです。伊藤博文は藩の許可を得て井上馨らと渡英しましたが、当時は幕府が日本人の海外渡航を禁じていたため、形式的には密航の扱いでした。ロンドンで欧米の国力を目の当たりにして、攘夷に疑問を持つようになります。
長州藩は1863年に下関で外国船を砲撃していました。1864年、その報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が長州藩を攻撃する計画が持ち上がります。ロンドンでこれを知った彼は、留学を切り上げて急ぎ帰国しました。藩主らに開国への転換を説きましたが、受け入れられませんでした。やがて下関で戦争が始まり、長州藩は敗れます。講和の席では、彼が通訳を務めました。
そのころ藩内では、幕府に従う姿勢をとる藩の首脳に反対して、高杉晋作が挙兵しました。伊藤博文もこれに加わります。勝った高杉晋作らが藩の主導権を握ると、藩は倒幕へ向かいました。倒幕のなかで彼が担ったのは、おもに武器の購入や他藩との交渉です。
明治元年(1868年)、伊藤博文は新政府で、外国との交渉を担当する役職(外国事務掛)に就きます。1871年には、岩倉具視を代表とする使節団の副使として欧米を回りました。この旅で、大久保利通の信頼を得ています。
■なぜ初代内閣総理大臣になったのか
明治18年12月22日(1885年)、それまでの政府の仕組みだった太政官にかわって内閣制度が始まり、44歳の伊藤博文が最初の内閣総理大臣に就任しました。この人選の背景を、二つに整理します。
一つ目は、大久保利通のあとを継いで、政府の中心にいたことです。伊藤博文は岩倉使節団の旅で大久保利通の信頼を得て、帰国後はその片腕として働きました。1878年に大久保利通が暗殺されると、内務卿を継いで明治政府の中心人物になります。1881年の明治十四年の政変では、憲法の構想で対立した大隈重信らが政府を去りました。政府は1890年に国会を開くことも約束しています。この政変を通じて、伊藤博文は政府の最高指導者の立場を固めたとされます。
二つ目は、新しい制度づくりの当事者だったことです。1882年、彼は憲法を調べるためヨーロッパへ渡り、ドイツやオーストリアで学びました。帰国後の1884年には、宮中に制度取調局を置いて、憲法にもとづく政治へ移る準備を進めています。続く内閣制度の創設も、この流れのなかにあります。
首相の条件をめぐる逸話として、赤電報(外国から政府に届く電報)を読めない者は首相になれない、という言葉が伝わっています。英語ができた伊藤博文は、この条件に合う人物でした。
なぜ伊藤博文だったのかを一言で言い切った記録は多くありません。ここでの整理は、複数の記録が一致する経歴の事実に基づいています。赤電報の言葉も、人選の決め手だったと断定できるものではありません。
■首相になってからと最期
首相になった伊藤博文は、憲法の起草を進めました。1889年に発布された大日本帝国憲法は、ドイツの憲法を手本にした、君主の権限が強い憲法です。1900年には、立憲政友会をつくって初代総裁になりました。
晩年の伊藤博文は、1905年に初代の韓国統監となりました。韓国統監は、日露戦争後に日本が韓国に置いた統治機関の長官です。日本は韓国の外交権を握り、韓国を日本の保護下に置く保護国化を進めました。彼はその指揮にあたりましたが、韓国を日本に併合することには慎重だったといわれます。ただ、保護国化は韓国の主権を奪うものでした。その交渉は強圧的だったという見方もあります。
1909年(明治42年)10月26日、伊藤博文はロシアの大蔵大臣と会談するため、中国のハルビンを訪れました。そのハルビン駅で、韓国の独立運動家・安重根に暗殺されました。68歳でした。
■トリビアの真相
伊藤博文は、1963年に発行が始まった千円札の肖像になりました。生家は貧しい農家でしたが、父が長州藩の下級武士の養子になったことで、彼自身も下級武士の身分を得ています。
試験に出るポイント
伊藤博文は初代内閣総理大臣(1885年・内閣制度の創設)。松下村塾→イギリス留学→岩倉使節団の副使→憲法調査→内閣制度→大日本帝国憲法(1889年)の流れで押さえましょう。
伊藤博文は初代内閣総理大臣(1885年・内閣制度の創設)。松下村塾→イギリス留学→岩倉使節団の副使→憲法調査→内閣制度→大日本帝国憲法(1889年)の流れで押さえましょう。
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