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長期議会とは わかりやすい世界史用語2690 
著作名: ピアソラ
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長期議会とは

1640年11月3日、イングランドの歴史においておそらく最も重要で、そして最も劇的な議会がウェストミンスターに召集されました。国王チャールズ1世によって不承不承ながら召集されたこの議会は、その後の20年近くにわたって断続的に存続し、イングランドの政治、宗教、そして社会の構造を根底から覆す巨大な変革のるつぼとなります。その前例のない会期の長さから、歴史家によって「長期議会」と名付けられたこの議会は、単なる立法機関ではありませんでした。それは王権神授説を掲げる国王と、法の支配と臣民の自由を掲げる議会との間のイデオロギー闘争の主戦場であり、最終的にはイングランドを血みどろの内戦へと導き、国王を処刑し、そして共和制という前代未聞の実験を試みる革命の機関そのものでした。



長期議会の物語は国王チャールズ1世の個人的な悲劇と、イングランドという国家のアイデンティティを巡るより大きな物語が交差する場所です。その召集は国王が11年間にわたって続けてきた「個人統治」の完全な破綻の結果でした。スコットランドでの主教戦争に惨敗し、反乱軍にイングランド北部を占領され、そして国庫が空になったチャールズには、賠償金を支払うために議会に頼る以外に道は残されていませんでした。彼はこの議会が春に解散させた「短期議会」と同じように、手に負えない反対派の巣窟となることを恐れていましたが、もはや彼に選択の自由はなかったのです。

ウェストミンスターに集った議員たちは、短期議会の時よりもさらに固い決意を抱いていました。ジョン・ピム、ジョン・ハムデンといった指導者たちに率いられた彼らは、もはや単に過去の苦情を是正するだけでは満足しませんでした。彼らの目的は船税や星室庁といった専制の道具を解体するだけでなく、二度と国王が議会なしで統治できないように、王権そのものに恒久的な憲法上の制約を課すことでした。彼らの手にはイングランド北部に駐留するスコットランド軍という強力な切り札が握られていました。国王が彼らの要求を拒めば、議会はスコットランドへの賠償金の支払いを停止し、戦争が再開されるかもしれなかったのです。

議会の最初の1年間は、まさに革命的な改革の嵐が吹き荒れました。ピムの指揮の下、議会は国王の最も憎まれた側近であるストラフォード伯とロード大主教を弾劾し、処刑台へと送りました。議会の承認なき課税は違法とされ、星室庁や高等宗務官裁判所といった大権裁判所は廃止されました。そして国王が意のままに議会を解散できないようにするための「三年議会法」と「議会解散禁止法」が制定され、王権は法の下にあることが明確に示されました。

しかし、この驚くべき団結は長くは続きませんでした。専制の道具が解体された後、次なる問題、すなわち宗教改革の将来像と、アイルランドで勃発したカトリック反乱を鎮圧するための軍の指揮権を巡って、議会内部の亀裂が露わになります。ピムらより急進的な改革を求める勢力は国王を全く信用せず、軍の指揮権を議会の管理下に置くことを要求しました。一方、エドワード・ハイドやフォークランド子爵といった穏健派は、これを憲法上の秩序を破壊する行き過ぎた要求であると考え、国王を擁護する側へと回り始めました。

この分裂は1641年11月の「大抗議文」を巡る激しい論争で頂点に達し、議会をほぼ二つの等しい勢力、すなわち後の「議会派」と「王党派」へと引き裂きました。そして1642年の年明け、チャールズがピムら5人の下院議員を反逆罪で逮捕しようと自ら兵を率いて下院に乗り込むという前代未聞の暴挙に出たことで、言葉による闘争はもはや限界に達します。国王はロンドンを脱出し、両者は互いに軍隊を編成し始めました。1642年の夏、チャールズがノッティンガムに王旗を掲げた時、長期議会が始めた革命はついにイングランド全土を巻き込む内戦の段階へと突入したのです。

召集と初期の革命的改革(1640年-1641年)

1640年11月3日、チャールズ1世が召集した新たな議会、すなわち長期議会は、春の短期議会とは全く異なる雰囲気の中で始まりました。議員たちの間には国王に対する深い不信感と、今度こそ長年の苦情を根本的に解決し、二度と専制を許さないという固い決意がみなぎっていました。そして彼らの背後にはイングランド北部に駐留し、国王に圧力をかけ続けるスコットランド盟約派軍という強力な同盟者が存在していました。この有利な状況の下、ジョン・ピムの巧みな指導によって、議会はその最初の1年間でイングランドの統治構造を根底から覆す一連の革命的な改革を断行します。

国王の弱みと議会の強み

長期議会が召集された時点で、チャールズ1世は政治的、軍事的、そして財政的に完全に手詰まりの状態にありました。

軍事的弱み: 第二次主教戦争でのニューバーンの戦いにおける惨敗は、国王軍の無力さを露呈しました。さらに悪いことに、勝利したスコットランド盟約派軍はイングランド領内にとどまり、ニューカッスルを含む北部二州を占領していました。彼らはイングランド議会が自分たちの要求を受け入れ、かつ駐留経費が支払われるまで撤退しないと宣言していました。チャールズには彼らを武力で追い出す力はありませんでした。

財政的弱み: 国庫は空っぽでした。短期議会が補助金を拒否した後、国王はあらゆる非合法な手段で資金を調達しようとしましたが、失敗に終わりました。さらに屈辱的な「リポンの和約」により、彼は占領地に駐留するスコットランド軍の経費として、一日あたり850ポンドという天文学的な金額を支払う義務を負わされていました。この支払いを続けるためには、議会の承認による大規模な課税以外に道はありませんでした。

政治的弱み: 短期議会の解散と、その後の敗戦は国王の政治的権威を地に落としました。イングランドの支配階級の多くはもはや国王を信用しておらず、彼の統治能力に深刻な疑問を抱いていました。12人の有力貴族が国王に議会召集を求める請願書を提出したことは、国王が自らの貴族たちからさえも孤立していることを示していました。

一方、ウェストミンスターに集った議員たち、特にジョン・ピムを中心とする反対派の指導者たちは、この国王の弱みを最大限に利用する準備ができていました。彼らの立場は短期議会の時よりもはるかに強力でした。

スコットランド軍という切り札: イングランド北部に駐留するスコットランド軍は、議会にとって事実上の「人質」であり、国王に対する強力な交渉の切り札でした。議会がスコットランドへの賠償金の支払いを承認する法案を可決する限り、国王は議会を解散することができませんでした。もし解散すれば支払いが止まり、スコットランド軍が再び敵対行動に出る可能性があったからです。ピムらはスコットランドの代表団と緊密に連携し、この状況を巧みに利用しました。

組織化された指導部: 短期議会での経験とその後の選挙戦を経て、反対派はピム、ハムデン、オリバー・シンジョンといった人物を中心とする、経験豊富で結束の固い指導部を形成していました。彼らはプロヴィデンス島会社などを通じて長年にわたり戦略を練り上げており、議会が開会するや否や、周到に準備された改革プログラムを実行に移すことができました。

世論の支持: 11年間の個人統治と、ロード大主教の宗教政策に対する民衆の不満は沸点に達していました。ロンドンの民衆は特に反国王・反主教感情が強く、議会の改革を支持するデモや請願を繰り返し行いました。この「群衆の圧力」は議会がより大胆な行動をとることを後押しし、国王や貴族院の穏健派に無言の圧力をかけました。

このように、長期議会はその冒頭から国王に対して圧倒的に有利な立場で交渉を進めることができたのです。

専制の道具の解体

ピムの戦略は、まず国王の専制を支えてきた「悪しき助言者」を排除し、次に専制の道具そのものである法制度と財政システムを解体することでした。

ストラフォード伯とロード大主教の弾劾: 議会が開会してわずか1週間後の11月11日、ジョン・ピムは下院の議場で立ち上がり、アイルランド総督にして国王の最高顧問であるストラフォード伯トーマス・ウェントワースを反逆罪で弾劾する動議を提出しました。ピムはストラフォードが「法の支配を覆し、恣意的な権力を導入しようと企てた」と告発しました。下院は直ちに弾劾に同意し、ストラフォードは逮捕され、ロンドン塔に投獄されました。その1ヶ月後にはカンタベリー大主教ウィリアム・ロードも同様に弾劾され、投獄されました。

ストラフォードの裁判は1641年の春、議会の最大の政治的ドラマとなりました。ピムらはストラフォードが短期議会の解散後に「アイルランド軍を使って、この王国を服従させることができる」と発言したことを、彼がイングランドの法と自由を破壊しようとした反逆の証拠として突きつけました。しかしストラフォードは法廷で雄弁に自らを弁護し、彼の行為が既存の法の下での反逆罪の定義に当てはまることを法的に証明するのは困難でした。

裁判が行き詰まると、ピムらは戦術を変更しました。彼らは通常の司法手続きである弾劾を放棄し、代わりに「私権剥奪法」という、議会の立法権によって特定の個人を裁判なしで有罪とし処刑することを可能にする非常手段に訴えました。この法案は下院を通過しましたが、貴族院では抵抗に遭いました。しかし法案の審議中、ストラフォードの処刑を求める数千人のロンドン市民がウェストミンスター宮殿を取り囲み「正義を!」と叫び続けました。この群衆の圧力と、軍隊内で国王がストラフォードを救出しようとする陰謀(陸軍陰謀事件)が発覚したことにより、貴族院の抵抗は崩れ、法案は可決されました。

最後に残されたのは国王の裁可でした。チャールズはかつてストラフォードに「その生命と財産にいかなる危害も及ばない」と個人的に約束していました。彼は最も忠実な僕を見捨てることに激しい良心の呵責に苛まれました。しかし彼の宮殿は武装した群衆に包囲され、もし裁可を拒否すれば王妃や子供たちの身にも危険が及ぶかもしれないという恐怖に直面しました。最終的にチャールズは自らの安全と家族の安全のために屈服しました。1641年5月12日、ストラフォード伯はタワーヒルで、数十万人の群衆が見守る中、斬首されました。彼の死は議会の勝利と国王の権威の失墜を象徴する決定的な出来事でした。(ロード大主教はその後も投獄され続け、1645年に処刑されます。)

憲法改革: ストラフォードの排除と並行して、議会は個人統治の間に国王が濫用した様々な権限を剥奪するための重要な立法を次々と可決させていきました。

三年議会法(1641年2月): この法律は国王に対して少なくとも3年に一度は議会を召集することを義務付けました。もし国王が召集を怠った場合、大法官や州のシェリフが国王の許可なく議会選挙の令状を発行できるという画期的な仕組みが導入されました。これにより国王が1629年の時のように長期間にわたって議会を無視することが法的に不可能になりました。

議会解散禁止法(1641年5月): ストラフォードの私権剥奪法案が審議されている最中に可決されたこの法律は、おそらく長期議会が制定した最も革命的な法律でした。これは現在の議会は貴族院と下院の両院の同意なしには解散も休会もできないと定めたものです。これにより長期議会は国王の意志から独立した事実上の常設機関となり、自らの存在を法的に保障しました。国王は自分に敵対的な議会をもはや自分の意志で終わらせることができなくなったのです。

トン税・ポンド税法(1641年6月): この法律はトン税・ポンド税(関税)の徴収には議会の承認が必要であることを改めて確認し、チャールズが即位以来、議会の承認なく徴収してきた慣行を違法としました。

大権裁判所の廃止(1641年7月): 議会は星室庁や高等宗務官裁判所、北部評議会といった、個人統治の時代に反対派を弾圧するための道具として機能したすべての国王大権裁判所を完全に廃止する法律を可決しました。これによりすべてのイングランド臣民は、コモン・ローの通常の司法手続きと、陪審員による裁判によってのみ裁かれるという原則が確立されました。

船税の違法化(1641年8月): 船税は完全に違法であると宣言され、ジョン・ハムデン事件の判決も覆されました。騎士強制金や王領森林の境界の拡大といった、他の非伝統的な財源確保策も同様に廃止されました。

これらの立法を通じて、1641年の夏までに長期議会はチャールズ1世の個人統治を支えてきた財政的、司法的、そして政治的な柱をすべて解体することに成功しました。イングランドの統治体制は国王大権が優越する「国王の政府」から、議会が国王と共同で統治にあたる「混合政体」へとその姿を大きく変えたのです。この時点では、貴族院と下院はほぼ満場一致でこれらの改革を支持していました。彼らは1628年の「権利の請願」の精神を揺るぎない法律として確立し、イングランドの「古来の憲法」を国王の専制から回復したと信じていました。

しかし、この驚くべき団結の時代は長くは続きませんでした。専制という共通の敵が打ち破られた後、彼らは次なる問いに直面することになります。すなわち、この革命をどこまで進めるべきかという問いです。そしてこの問いに対する答えを巡って、議会はやがて二つに引き裂かれていくことになるのです。

議会の分裂と内戦への道(1641年-1642年)

1641年の夏、長期議会はその目的の多くを達成したかに見えました。国王の専制を支えた側近は排除され、その道具は解体されました。イングランドの「古来の憲法」は回復され、王権は法の支配の下に置かれました。多くの議員、特に貴族院の穏健派はもはや革命は終わり、国王との和解を通じて新たな秩序を安定させるべき時が来たと考えていました。しかしジョン・ピムとその支持者たちにとって、闘いはまだ終わっていませんでした。彼らはチャールズ1世という人間を全く信用していませんでした。国王が機会さえあれば失われた権力を取り戻し、議会に復讐しようとするだろうと固く信じていたのです。この国王に対する根深い不信感が、議会をさらなる改革、そして最終的には国王との全面対決へと駆り立てていくことになります。そしてその過程で、かつて国王の専制に対して団結していた議会は、宗教と軍隊の指揮権という二つの大きな問題を巡って修復不可能なほどに分裂していきます。

宗教改革を巡る対立

最初の、そして最も深刻な分裂の亀裂は宗教問題、すなわちイングランド国教会の将来像を巡って生じました。

議会のほぼ全員がロード大主教の「アルミニウス主義」的な改革を憎み、それを覆すべきであるという点では一致していました。しかしその先のビジョンは大きく異なっていました。

急進派(ピューリタン): ジョン=ピムやオリバー=クロムウェルといった、より急進的なピューリタンの議員たちは、単にロードの改革を元に戻すだけでは不十分だと考えていました。彼らは問題の根源は主教制度そのものにあると主張しました。主教は国王によって任命され国王に忠誠を誓う王権の道具であり、彼らが存在する限り教会は常にカトリック的慣習へと堕落する危険をはらんでいると考えたのです。1640年12月、1万5千人のロンドン市民が署名した「根こそぎ請願」が議会に提出され、主教制度の完全な廃止を要求しました。ピムらはこの請願を支持し、イングランド国教会をスコットランドのような主教のいない長老派の教会制度に改革することを目指しました。

穏健派(エピスコパリアン): 一方、エドワード・ハイドやフォークランド子爵といった穏健派の議員たちは、この急進的な提案に強い警戒感を抱きました。彼らはロードの行き過ぎた改革には反対でしたが、主教制度そのものはイングランド国教会の使徒時代から続く正統な伝統であり、社会の秩序と安定に不可欠なものであると信じていました。彼らにとって主教制度を廃止することは単なる教会改革ではなく、社会の階級秩序そのものを破壊しかねない危険な革命でした。彼らは主教の権力を制限することには賛成しましたが、その存在自体をなくすことには断固として反対しました。彼らは国王が最高統治者である主教制の国教会を維持することを望んだのです。

この対立は1641年の夏、「根こそぎ法案」の審議を通じて激化しました。法案は下院で激しい議論を巻き起こし僅差で第二読会を通過しましたが、最終的にはスコットランドとの交渉が優先されたため棚上げにされました。しかしこの議論は議員たちの間に深い宗教的な溝を生み出し、かつての反対派の団結を初めて揺るがしました。ハイドのような人物はピムの宗教的急進主義が法と秩序そのものを脅かすものであると感じ始め、次第に国王を過激なピューリタニズムから伝統的な教会を守るための防波堤と見なすようになっていきました。

アイルランド反乱と軍の指揮権

議会内の分裂を決定的にした第二の要因は、1641年10月にアイルランドで勃発した大規模なカトリック教徒の反乱でした。

ストラフォード伯の強権的な統治が崩壊した後、アイルランドの政治情勢は極度に不安定化していました。イングランド議会が反カトリック的な姿勢を強めるのを見て、アイルランドの「古来の英語系カトリック教徒」とゲール系アイルランド人の指導者たちは、自分たちの土地と信仰がイングランドのピューリタンによって奪われるのではないかという恐怖を募らせました。1641年10月23日、彼らはアルスター地方で蜂起し、プロテスタントのイングランド人およびスコットランド人入植者を攻撃しました。反乱は瞬く間にアイルランド全土に広がり、数千人のプロテスタントが殺害されたという、誇張された、しかし恐ろしいニュースがロンドンに届きました。

このニュースはイングランド全土に衝撃とパニックを引き起こしました。議会の誰もがこの反乱を鎮圧するために大規模な軍隊を編成しアイルランドに派遣しなければならないという点では一致していました。しかし問題はその軍隊を誰が指揮するのかということでした。

憲法上の伝統によれば軍隊の指揮権は国王大権に属していました。しかしピムとその支持者たちにとって、チャールズ1世に新たな軍隊の指揮権を委ねることは自殺行為に等しいと考えられました。彼らは国王がアイルランド反乱の鎮圧を口実にして編成した軍隊をアイルランドではなくイングランドに向け、議会を弾圧し失われた権力を取り戻すために使うのではないかと本気で恐れていました。彼らの間では、このアイルランド反乱そのものが国王と王妃が裏で糸を引いている巨大なカトリックの陰謀の一部であるという噂さえ、まことしやかに囁かれていました。

このためピムらは伝統を破り、軍隊の編成と指揮官の任命を議会の管理下に置くべきであると主張し始めました。これは国王大権のまさに核心部分を国王から奪い取ろうとする前代未聞の要求でした。

大抗議文と5議員事件

この軍の指揮権を巡る対立と国王に対する根深い不信感は、1641年11月、議会史に残る最も有名な文書の一つ、「大抗議文」の提出へと繋がりました。

大抗議文はピムらによって起草された200以上の項目からなる長大な文書でした。その内容はチャールズ1世の治世の初めから現在に至るまでのすべての失政、すなわち違法な課税、専制的な裁判、そしてカトリックの陰謀などを詳細に列挙し厳しく非難するものでした。そしてその結論として、国王は議会が信頼する大臣のみを任命し、宗教問題を解決するための教会会議を召集することなどを要求しました。

この文書の真の目的は、国王に提出することよりもむしろ国民に直接訴えかけ、国王がいかに信用できない人物であるかを暴露し、軍の指揮権を議会が掌握することの正当性を世論に訴えることにありました。それは国王との和解の試みではなく、国王に対する政治的な宣戦布告でした。

このため、穏健派の議員たちは大抗議文に激しく反対しました。エドワード・ハイドはこれを「神と人に対して不必要に、そして不当に鋭く訴えかけるもの」であり、国王との和解の道を閉ざし王国を分裂させるものだと非難しました。

1641年11月22日の夜、大抗議文の採決を巡って下院は徹夜の激しい討論を繰り広げました。議員たちは興奮のあまり剣の柄に手をかける者さえ現れ、議場は内戦の寸前のような殺気立った雰囲気に包まれました。最終的に採決が行われた結果、大抗議文は159票対148票という、わずか11票差でかろうじて可決されました。

この投票結果は、かつて国王の専制に対して団結していた反対派が今やほぼ二つの等しい勢力に完全に分裂してしまったことを明確に示しました。大抗議文に賛成した議員たちが後の「議会派」の中核となり、反対した議員たちが「王党派」の中核となっていきます。

分裂した議会を見て、チャールズは今こそ反撃の好機であると判断しました。彼は大抗議文を自分に対する反逆的な中傷であると見なし、その首謀者たちを力で排除することを決意します。

1642年1月3日、国王は貴族院において、ジョン・ピム、ジョン・ハムデン、アーサー・ハゼルリッグ、デンジル・ホリス、そしてウィリアム・ストロードの5人の下院議員と、マンデヴィル卿(貴族院議員)を反逆罪で告発しました。翌1月4日、国王は法の手続きを無視し、約400人の武装した兵士を率いて自ら下院の議場に乗り込み5議員を逮捕しようとしました。

これはイングランド憲政史上、前代未聞の暴挙でした。国王が議会の特権の聖域である下院の議場に武力で足を踏み入れたことは、議会の独立性に対する最も露骨な侵害でした。しかし5議員は事前に情報を得てロンドン市内に逃げ込んでおり、議場にはいませんでした。国王は議長席に座り議場を見渡して「鳥は逃げてしまったようだ」と呟き、空しく引き揚げるしかありませんでした。

この「5議員事件」はチャールズにとって政治的な大惨事でした。彼の違法で暴力的な行動は、彼に残っていたわずかな同情さえも吹き飛ばし、ロンドン市民と議会を完全に敵に回しました。ロンドンの民兵組織は議会を守るために武装し、数日後、5議員は英雄として群衆の歓呼に迎えられてウェストミンスターに帰還しました。

身の危険を感じたチャールズは1月10日、ロンドンを脱出し北へと向かいました。彼が再び首都ロンドンに足を踏み入れるのは7年後、囚人として自らの裁判に臨む時でした。

国王のロンドン脱出によって国王と議会の間の政治的な対話は事実上、終わりを告げました。両者はもはや言葉ではなく武器によって自らの主張を貫徹しようと、それぞれ軍隊の編成を開始します。議会は民兵の指揮権を掌握するための「民兵条例」を国王の裁可なしで可決しました。一方、国王は各地のジェントリに「召集令状」を発し、自らのために軍隊を組織するよう命じました。

1642年の夏、両者の間の最後の交渉も決裂しました。そして8月22日、チャールズ1世はノッティンガムの城に王室の軍旗を掲げました。それは議会に対する正式な宣戦布告でした。長期議会が始めた革命はついにイングランド全土を巻き込む、7年間にわたる血みどろの内戦へと突入したのです。

内戦、国王の処刑、そして共和制(1642年-1649年)

1642年の夏に始まったイングランド内戦は、長期議会の歴史における新たな、そして最も暴力的な段階の始まりでした。当初、多くの人々は一度か二度の決戦ですぐに戦争は終わるだろうと楽観していました。しかし戦争は7年近くにもわたって続き、ブリテン諸島全土を巻き込み、最終的には国王の処刑とイングランド史上唯一の共和制の樹立という、誰も予想しなかった結末へと至ります。この過程で長期議会そのものも大きくその姿を変えていきました。政治的な議論の場であった議会は戦争を遂行するための国家機関となり、そして最終的には自らが作り出した軍隊、すなわち「新模範軍」によってその権威を覆されることになるのです。

内戦の遂行と議会派の勝利

内戦の初期、戦況は一進一退でした。王党派は経験豊富な指揮官(国王の甥であるルパート公など)と強力な騎兵隊を擁し、イングランドの北部と西部を支配していました。一方、議会派は海軍とロンドンを含む経済的に豊かな南東部を掌握していました。1642年10月のエッジヒルの戦いは引き分けに終わり、戦争が長期化することが明らかになりました。

戦争を有利に進めるため、ジョン・ピムは再びスコットランドとの同盟に活路を見出します。1643年9月、議会はスコットランド盟約派との間で「厳粛な同盟と盟約」を締結しました。この協定によりスコットランドはイングランド議会を支援するために軍隊をイングランドに派遣することになりました。その見返りとしてイングランド議会はイングランド国教会を「神の言葉に従い、最もよく改革された教会の例に倣って」、長老派の原則に基づいて改革することを約束しました。

この同盟は戦局を決定的に議会派有利に傾かせました。1644年7月、イングランド議会軍、スコットランド軍、そして東部連合軍(オリバー=クロムウェルが指揮する部隊)からなる連合軍は、マーストン・ムーアの戦いで王党派軍に壊滅的な打撃を与えました。この戦いでクロムウェルの騎兵隊「鉄騎隊」は無敵を誇ったルパート公の騎兵隊を打ち破り、クロムウェルは議会派の最も有能な軍事指導者としてその名を轟かせました。

しかし議会軍の内部には深刻な対立が存在していました。エセックス伯やマンチェスター伯といった貴族出身の司令官たちは、国王との全面的な勝利よりも交渉による妥協的な和平を望んでいました。彼らの戦争指導はしばしばためらいがちで、決定的な勝利を逃す原因となっていました。

この状況に業を煮やしたクロムウェルらは軍隊の抜本的な改革を断行します。1645年初頭、議会は「辞退条例」を可決しました。これは貴族院および下院の議員が軍の指揮官を兼任することを禁じるものでした。これによりエセックス伯やマンチェスター伯は指揮権を返上せざるを得ませんでした。唯一の例外として卓越した軍事的才能を認められたクロムウェルは、中将として軍に留まることが許されました。

そして議会はこれまでの寄せ集めの軍隊に代わり、全国的な規模で組織され議会によって直接給与が支払われる常設の専門軍を創設しました。これが「新模範軍」です。トーマス・フェアファクス卿が総司令官に、そしてオリバー=クロムウェルが騎兵隊司令官に任命されたこの軍隊は、兵士の出自や身分ではなく能力と功績によって昇進が決まり、何よりも厳格な規律とピューリタンの熱烈な宗教的情熱によって固く結束していました。

新模範軍の戦闘力は圧倒的でした。1645年6月、ネイズビーの戦いで新模範軍はチャールズ1世が率いる王党派の最後の主力軍を完全に粉砕しました。この戦いで国王の個人的な文書が押収され、彼がアイルランドのカトリック教徒や大陸の君主たちに軍事支援を求めていたことが暴露されました。これは国王に対するさらなる不信感を招きました。

ネイズビーの戦いの後、王党派の組織的な抵抗は事実上、終わりを告げました。1646年5月、チャールズ1世は議会軍に投降するのを避け、スコットランド軍の陣営に自ら身を投じました。第一次イングランド内戦は議会派の完全な勝利に終わったのです。

議会と軍隊の対立
戦争には勝利したものの、議会は次なる、そしてより困難な問題に直面しました。それは戦後の国家体制をどのように再建するか、そして勝利をもたらした巨大な軍隊、新模範軍をどう扱うかという問題でした。この二つの問題を巡って、今度は議会内の多数派(長老派)と新模範軍との間で深刻な対立が生じます。

議会の多数派を占めていたのはデンジル・ホリスらに率いられた、政治的には保守的な「長老派」でした。彼らは国王との交渉を通じて君主制を維持し、自らが望む長老派の教会制度を国教会として確立することを目指していました。彼らにとって新模範軍はもはや用済みであり、その存在はむしろ危険でさえありました。軍隊は維持費がかさむだけでなく、その内部ではクロムウェルのような「独立派」や、さらに急進的な宗教的・政治的思想を持つ兵士たちの影響力が強まっていました。長老派はこの危険な軍隊をできるだけ早く解体しようとしました。彼らは軍の大部分を解散させ、一部の部隊だけを未払いの給与を清算しないままアイルランドの反乱鎮圧に派遣しようと計画しました。

これに対して新模範軍の兵士たちは激しく反発しました。彼らは長年の奉仕に対する正当な報酬(未払い給与)と戦時中の行為に対する免責を求めました。さらに彼らは自分たちが血を流して戦い取った良心の自由(各々の信者が国家の干渉を受けずに自らの信仰を実践する自由)が、議会の長老派が強制しようとしている画一的な長老派教会制度によって脅かされていると感じていました。

1647年の春、軍と議会の対立は決定的な局面を迎えます。兵士たちは各連隊から代表(アジテーター)を選出し、軍の最高幹部(クロムウェルやヘンリー・アイアトンなど)と共に「軍総評議会」を組織しました。これは軍隊が自らを単なる国家の道具ではなく、イングランド国民の権利と自由を守るための独立した政治的主体であると宣言したに等しい行為でした。

6月、軍は議会が国王チャールズ1世を自分たちを抜きにしてロンドンに連れ戻そうとしていることを察知し、大胆な実力行使に出ます。ジョイスという士官が率いる一隊が、議会が国王を軟禁していたホールデンビー・ハウスを襲撃し、国王を軍の管理下に移してしまいました。これにより軍は国王という最も重要な交渉の切り札を議会から奪い取ったのです。

そして軍はロンドンへと進軍し、議会に対してホリスら反軍的な指導者である11人の議員を追放するよう要求しました。議会は軍の圧力の前に屈服し、11議員は大陸へと逃亡しました。この時点で長期議会はもはや自らの軍隊の意のままに操られる無力な存在となっていました。

パトニー討論と第二次内戦

国王を確保した軍の内部では次なる国家体制のあり方を巡って活発な議論が繰り広げられました。特に有名なのが1647年の秋、ロンドン郊外のパトニーで開かれた軍総評議会での討論(パトニー討論)です。

この討論では二つの異なる共和主義的なビジョンが激しく衝突しました。

高級将校(グランディーズ)の提案: クロムウェルの義理の息子であるヘンリー・アイアトンに代表される軍の高級将校たちは、「建議要目」と呼ばれる比較的穏健な憲法草案を提示しました。これは国王の権力を大幅に制限し議会の権限を強化するものの、君主制と貴族院自体は存続させるというものでした。彼らは伝統的な土地所有者階級の財産権と社会の安定を重視していました。

平等派(レヴェラーズ)の提案: 一方、兵士の代表(アジテーター)やジョン・リルバーンのようなロンドンの急進派市民に影響された「平等派」は、「人民協定」というより急進的な草案を突きつけました。これはイングランドのすべての「自由な人民」は神の下で平等であり、主権は国王や議会ではなく人民に存すると宣言するものでした。彼らは2年ごとに改選される一院制の議会、財産資格によらないほぼすべての成人男性への選挙権の拡大、そして宗教の完全な寛容を要求しました。これは当時のヨーロッパにおいて最も民主的な政治思想の一つでした。

パトニー討論では、アイアトンと平等派の代表であるレインバラ大佐との間で、選挙権の範囲を巡る有名な論争が交わされました。レインバラは「イングランドで最も貧しい者も最も偉大な者と同じように、生きるべき人生を持っている。政府の下に生きるすべての人間は、まずその政府に自らの同意を与えなければならない」と述べ、普通選挙権を擁護しました。一方、アイアトンは財産を持たない者に選挙権を与えれば、彼らは財産を持つ者の土地や富を奪う法律を作るかもしれず、財産権と社会秩序が崩壊してしまうと反論しました。

この討論は結論が出ないまま中断されました。その理由はチャールズ1世が軍の監視下から脱走し、ワイト島へと逃亡したというニュースが届いたからです。チャールズはワイト島から再びスコットランドと密約を結び、王党派の残党とスコットランド軍にイングランドへの侵攻を促しました。

1648年、王党派の反乱とスコットランド軍の侵攻によって第二次イングランド内戦が勃発しました。新模範軍は再び戦場へと赴き、数ヶ月のうちにこれらの反乱を迅速かつ冷酷に鎮圧しました。

プライドのパージと国王の裁判・処刑

第二次内戦の経験は新模範軍の兵士と将校たちをさらに急進化させました。彼らはチャールズ1世を「血にまみれた男」と見なすようになりました。国王は一度敗北したにもかかわらず神の裁きを受け入れず、再び王国を血みどろの戦争に引きずり込んだ許されざる罪人であると考えたのです。軍の内部ではもはや国王とのいかなる交渉も無意味であり、彼を正義の裁きにかけるべきだという声が日増しに高まっていきました。

しかし、議会の長老派の多数は依然として国王との交渉による和解を諦めていませんでした。1648年の後半、彼らはワイト島で国王との交渉(ニューポート条約)を再開し妥協案に合意しようとしていました。

これを知った軍の指導部は、ついに議会そのものを武力で浄化することを決断します。1648年12月6日、トーマス・プライド大佐が率いる一隊がウェストミンスターの下院の入り口を封鎖し、国王との交渉に賛成した議員たちを議場から強制的に排除しました。この事件は「プライドのパージ」と呼ばれています。約140人の議員が追放または逮捕され、議会には軍の路線を支持するわずか60人程度の急進的な議員だけが残されました。

この軍によって「浄化」された残部の議会は「ランプ議会」と呼ばれます。ランプ議会はもはやイングランド国民を代表する機関ではなく、新模範軍の意のままに動く傀儡政権に過ぎませんでした。

ランプ議会は直ちに軍の要求を実行に移しました。彼らは国王を反逆罪、殺人罪、そして国家に対する戦争を仕掛けた罪で裁くための特別高等裁判所を設置する法律を可決しました。貴族院がこれを拒否すると、ランプ議会は「下院において結集した人民は神の下ですべての正当な権力の源泉であり、下院の制定する法律は国王や貴族院の同意がなくとも国民を拘束する」と宣言し、単独で裁判の準備を進めました。

1649年1月、ウェストミンスター・ホールでチャールズ1世の裁判が始まりました。国王は法廷の権威そのものを一貫して否認しました。彼は「いかなる地上の権力も私を裁くことはできない。私は神の恩寵による国王である」と主張し、自らを法と秩序の殉教者として描き出そうとしました。

しかし裁判官たちは、国王もまた法の下にあるという原則を譲りませんでした。1月27日、裁判所はチャールズ1世に有罪の判決を下し、彼を「暴君、反逆者、殺人者、そして国家の善良な国民に対する公然の敵」として、斬首による死刑を宣告しました。

1649年1月30日の凍てつくような寒い日、チャールズ1世はホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスの前に設けられた処刑台に威厳を保ったまま登りました。彼は群衆に向かって短い演説を行い、自らは国民の自由のために死ぬ殉教者であると述べました。そして彼は首を断頭台に置き、一撃のもとにその生涯を終えました。

一人の君主が自らの臣民によって公然と裁判にかけられ処刑されたという事実は、ヨーロッパ全土に衝撃と戦慄を与えました。それは王権神授説という、何世紀にもわたってヨーロッパの政治秩序を支えてきたイデオロギーの完全な否定を意味しました。

国王の処刑から数日後、ランプ議会は君主制と貴族院の廃止を宣言し、イングランドを「コモンウェルス(共和国)および自由国家」であると布告しました。こうして長期議会が始めた革命はその最もラディカルな頂点に達し、イングランドはその歴史上最初で最後の共和制の時代へと足を踏み入れたのです。

ランプ議会、護国卿制、そして王政復古(1649年-1660年)

国王の処刑と共和制の樹立は革命の終わりではなく、新たな、そして困難な実験の始まりでした。その後の11年間、イングランドは君主制なき統治を様々な形で模索しますが、いずれの試みも長期的な安定を築くことはできませんでした。この時代、長期議会の残部であるランプ議会は次第にその正統性を失い、最終的には自らが作り出した英雄オリバー=クロムウェルによって解散させられます。クロムウェルの死後、イングランドは無政府状態の危機に瀕し、最終的には伝統的な君主制と議会の秩序へと回帰していくことになります。

ランプ議会とクロムウェルの台頭

1649年に成立したイングランド共和国は当初から内外の敵に囲まれていました。アイルランドとスコットランドは処刑されたチャールズ1世の息子チャールズ2世を正統な国王であると宣言し、公然と共和国に敵対しました。国内でも王党派の残党や軍の急進主義に不満を持つ長老派、そして約束された民主的改革が実現されないことに失望した平等派など、多くの人々がランプ議会に敵意を抱いていました。

この危機的状況を乗り切る上で中心的な役割を果たしたのがオリバー=クロムウェルでした。彼はまずアイルランドへと遠征し、1649年から1650年にかけてドロヘダとウェックスフォードでの虐殺を含む冷酷で徹底的な軍事作戦によってカトリックの反乱を完全に鎮圧しました。その後、彼はスコットランドへと転戦し、1650年のダンバーの戦いと1651年のウスターの戦いでチャールズ2世を支持するスコットランド軍を壊滅させました。ウスターの戦いを最後にブリテン諸島における内戦は完全に終結しました。クロムウェルは共和国の疑いようのない救世主となったのです。

しかし軍事的な勝利は政治的な安定には結びつきませんでした。戦争が終わるとランプ議会と、クロムウェルが率いる新模範軍との間の緊張関係が再び高まります。クロムウェルと軍はランプ議会が腐敗し自己の利益ばかりを追求する非効率な寡頭支配に陥っていると見なしていました。彼らはランプ議会が自らを解散し、新たな、より真に国民を代表する議会のための選挙を実施することを強く要求しました。

しかしランプ議会の議員たちは権力の座にしがみつき選挙の実施を引き延ばし続けました。彼らは自由な選挙を行えば王党派や長老派が多数を占め、革命の成果がすべて覆されてしまうことを恐れていたのです。

1653年4月20日、クロムウェルの忍耐は限界に達しました。彼は兵士を率いて下院の議場に乗り込み、ランプ議会の議員たちを罵倒の言葉と共に力ずくで追い出しました。「お前たちはここに座りすぎだ。もういい、出ていけ!主よ、私をこの者たちからお救いください!」と叫んだと伝えられています。こうして1640年以来13年間にわたって存続してきた長期議会は、その最もラディカルな形態であったランプ議会もまた軍事力によってその歴史の幕を閉じることになりました。皮肉なことに、国王の専制から議会を守るために始まった革命は、議会そのものが軍隊の独裁によって解散させられるという結果に終わったのです。

護国卿制の実験

議会を解散させたクロムウェルは新たな統治形態を模索します。彼は当初、「聖者の議会」あるいは「ベアボーンズ議会」と呼ばれる、宗教的に敬虔な人物たちを全国から指名して構成された全く新しいタイプの議会を試みました。しかしこの議会もまた急進的な改革を巡って内部対立に陥り、わずか数ヶ月で自ら解散してしまいました。

政治的な混乱が続く中、軍の将校たちは1653年12月、「統治章典」と呼ばれるイングランド史上初、そして唯一の成文憲法を起草しました。この憲法に基づきオリバー=クロムウェルは終身の「護国卿」に就任し、イングランド、スコットランド、アイルランドの三つの共和国を統治する絶大な行政権を握ることになりました。立法権は護国卿と、定期的に召集される一院制の議会が共同で担うこととされました。

クロムウェルの護国卿制は事実上の軍事独裁政権でした。彼はイングランド全土を11の軍管区に分け、それぞれに少将を配置して地方の治安維持と道徳的な規律の強制にあたらせました。この「少将の支配」は国民に軍事政権による圧政であるという印象を与え非常に不人気でした。

クロムウェルは護国卿として宗教的な寛容を推進しユダヤ人の再定住を許可するなど進歩的な政策も実行しました。しかし彼の政権は議会との対立に絶えず悩まされ続けました。彼が召集した議会は統治章典そのものを批判し軍の権力に挑戦しようとしたため、彼は何度も議会を解散させなければなりませんでした。

1657年、議会はクロムウェルに対して護国卿に代わり国王の称号を受け入れるよう求める「謙虚な請願と勧告」を提出しました。これは伝統的な君主制の形態に戻ることで政権の正統性を高め安定を図ろうとする試みでした。クロムウェルは数週間にわたってこの提案に悩みましたが、最終的には軍の古参幹部たちの共和制の理想に対する強い反対に配慮し、国王になることを拒否しました。

王政復古

1658年9月3日、オリバー=クロムウェルは病のために亡くなりました。彼の死は護国卿制の、そしてイングランド共和制の終わりの始まりでした。護国卿の地位は彼の息子のリチャード=クロムウェルに引き継がれましたが、彼には父のようなカリスマ性も軍を統率する能力もありませんでした。軍の将軍たちの間で権力闘争が始まり、リチャードはわずか数ヶ月で辞任に追い込まれました。

リチャードの辞任後、イングランドは完全な無政府状態に陥りました。軍の派閥が互いに対立しランプ議会が一時的に復活させられるなど、政治的な混乱が続きました。国民は長年の革命と軍事独裁、そして終わりの見えない不安定さに疲れ果てていました。彼らの間では平和と秩序、そして伝統的な統治形態である君主制の復活を望む声が日増しに高まっていきました。

この状況を収拾し王政復古への道を拓いたのが、スコットランド駐留軍の司令官であったジョージ・マンク将軍でした。彼はかつて王党派として戦った経験を持つ現実的な軍人でした。1660年の初頭、マンクは自らの軍隊を率いてロンドンへと進軍しました。彼はランプ議会を解散させ、プライドのパージで追放された長老派の議員たちを呼び戻し、長期議会をその本来の形で一時的に復活させました。

この復活した長期議会は自らを解散し、新たな、自由な選挙による議会「仮議会」を召集するための布告を出しました。そして1660年3月16日、1640年11月3日に召集されて以来20年近くにわたってイングランドの運命を左右してきた長期議会は、ついに自らの意志によってその長い歴史に正式な終止符を打ったのです。

1660年4月に召集された仮議会は圧倒的に王党派が多数を占めていました。議会はオランダに亡命していたチャールズ2世と交渉を開始しました。チャールズは「ブレダ宣言」を発表し、内戦中の行為に対する大赦、宗教の寛容、そして軍の未払い給与の支払いを約束しました。

1660年5月29日、チャールズ2世はロンドンに帰還し、熱狂的な民衆の歓呼に迎えられて父の王位に就きました。イングランドの共和制の実験は終わりを告げ君主制が復活したのです。

しかし復活したのはチャールズ1世が目指したような絶対君主制ではありませんでした。王政復古後のイングランドはもはや1640年以前のイングランドではありえませんでした。長期議会がその初期に制定した革命的な憲法改革、すなわち星室庁の廃止、議会の承認なき課税の禁止、そして三年議会法などはそのまま新たな体制にも引き継がれました。国王はもはや議会なしで統治することはできず、法の支配の下にあるという原則は揺るぎないものとなっていました。

長期議会が始めた革命は多くの血を流し多くの混乱を生みましたが、その闘争を通じてイングランドの政治体制は絶対君主制から、議会が国家の主権において不可欠な役割を担う立憲君主制へと不可逆的に移行したのです。その遺産は1688年の名誉革命を経てさらに確固たるものとなり、その後のブリテン諸島、そして世界全体の立憲政治と民主主義の発展の重要な礎の一つとなったのです。

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