更新日時:
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哲学者列伝 アウグスティヌス |
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著作名:
サリー
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◯人物
392年、キリスト教がローマ帝国において国教とされると、教会組織内部では教義上の不一致を調整するために多くの宗教会議(代表的なものがニケーア公会議)が開かれた。そこでは哲学を応用した神学論争が行われていたが、このような教義の調整を完成させ、キリスト教会最大の教父(論争や弁明によって正当な教義を確立させる、教会の指導者)と呼ばれたのがアウグスティヌスである。元はマニ教に傾倒していたが、キケロに触れることでやがてこれを離れ、放縦の生活を送りながら神と自由意志の矛盾に苦悩する日々を送る。32歳の時に「取りて読め tolle, lege」という歌声のような声を聞いて聖書を読み、キリスト教に回心した。マニ教や古代ギリシアの哲学者、新プラトン主義等に多大な影響を受けているが、単なる援用ではなくして批判的に継承しているので、例えば彼におけるイデアの働きなどはプラトンのそれと混同してはならない。
◯著作
『告白』『神の国』『三位一体論』など
「神よ、私に貞潔さと堅固さをお与えください。ですが、いますぐにではなく。」(『告白』)
「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ません。」(『告白』)
◯思想
一時は懐疑論にも陥ったアウグスティヌスが、神の存在を確信するに至ったのはなぜか。彼はデカルトに先駆けて、全てを疑った末に導き出される確実なものを思考する。我々が何かを疑うことができるということは、我々が自らの内に真偽を判断する基準を持っているということにほかならない。例えば、我々は目の前にある現実を不確実なものとして判断することができるが、それは真理の基準に照らしてこそ不確実であると判断することが出来るのである。この基準こそが、感覚・知覚とは区別される理性という能力であり、この理性によって我々は数学や美学の真理といった不変化的で永遠なものを把握する。このような永遠の真理は、我々の有限な精神が創りだしたのでは有り得ず、それは神に内在するイデアによって創りだされたのである。神の精神のうちにあるイデアによってすべては創造され、我々の精神が真理を把握することが出来るのは、神的な真理が我々の精神を照らしだすことによって可能なのである。
では、我々はどのようにして神を把握することが出来るのか。アウグスティヌスによれば、神はその超越的な本性上、我々の地上的で不完全な思惟によっては把握されない。我々は神の啓示によって、愛と信仰を通じて把握することが出来るのみであって、神についての知識は我々には用意されていないのである。アウグスティヌスはこのことを「無知の知」と読んでいる。
全てが神によって創造されたとするならば、人間の罪深さや悪が存在するのはなぜか。この問いは自由意志の問いと関連する。アウグスティヌスは自由意志を認めるが、自身を含め人間の罪深さをよく感じていた彼は、自由意志を原初の人間・アダムにのみ認めた。アダムは神より「罪を犯さないことができる」という自由を与えられていたが、神の信頼に背いて原罪を犯し、これにより人間は自由を失って、「罪を犯さざるをえない」という悪状態に陥ることとなったのである。
このような罪深い人間は、ただ神の恩寵によってのみ救われることが出来る。恩寵は神が与える無償の愛であり、人間はこの超自然的な愛によってのみ真の自由、すなわち「罪を犯すことができない」自由を獲得することが出来る。つまり人間は自由意志によっては救われないのであり、誰が神の恩寵を受けて救われるかは神の意志によってあらかじめ定められているのである。また、神の恩寵は教会を通じてのみ預かることができるとし、このことによって教会に対する信仰の基盤が確立された。ちなみに、アウグスティヌスはこの自由意志の否定と予定説をもって、自由意志による救済を説くペラギウス派に反対する立場を取った。
以上のように、アウグスティヌスの思想はとりわけ愛を重んじたものであることが分かる。キリスト教には三元徳と呼ばれる三つの徳(信仰・希望・愛)があるが、アウグスティヌスによれば、人間の意志はこの神への愛によって動かされるのであり、それは物体にとっての重力のように必然的なものなのである。
※アウグスティヌスは、哲学史上初めて歴史を哲学の対象としたことでも知られる。彼は人類の歴史を六つの段階に分け、これを「神の国」と「地に国」の争いとして考える。このあたりにも、光の世界と闇の世界の戦いから世界を説明するマニ教の影響が見て取れる。アウグスティヌスにおける「神の国」とは天上に存在するもので、神と隣人への愛によって生まれるものとされるが、地上の人間のうち神に救われる者はもともと「神の国」に属する存在である。対して「地の国」は悪魔の国であり、人間の高慢な自己愛によって生まれ、そのような自己愛によって利己的に生きる人間や、神によって救われる予定の無い者はこの国に属している。地上の人間で「神の国」に属するものは、教会を通じて愛と平和を実践することで、真の平和にそなえる。彼によれば、この争いの過程は「今や最後の段階」に来ており、最後の審判が終われば、「神の国」の住人は永遠の平和を得、「地の国」の住人は永劫の罰を受けるという。
392年、キリスト教がローマ帝国において国教とされると、教会組織内部では教義上の不一致を調整するために多くの宗教会議(代表的なものがニケーア公会議)が開かれた。そこでは哲学を応用した神学論争が行われていたが、このような教義の調整を完成させ、キリスト教会最大の教父(論争や弁明によって正当な教義を確立させる、教会の指導者)と呼ばれたのがアウグスティヌスである。元はマニ教に傾倒していたが、キケロに触れることでやがてこれを離れ、放縦の生活を送りながら神と自由意志の矛盾に苦悩する日々を送る。32歳の時に「取りて読め tolle, lege」という歌声のような声を聞いて聖書を読み、キリスト教に回心した。マニ教や古代ギリシアの哲学者、新プラトン主義等に多大な影響を受けているが、単なる援用ではなくして批判的に継承しているので、例えば彼におけるイデアの働きなどはプラトンのそれと混同してはならない。
◯著作
『告白』『神の国』『三位一体論』など
「神よ、私に貞潔さと堅固さをお与えください。ですが、いますぐにではなく。」(『告白』)
「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ません。」(『告白』)
◯思想
一時は懐疑論にも陥ったアウグスティヌスが、神の存在を確信するに至ったのはなぜか。彼はデカルトに先駆けて、全てを疑った末に導き出される確実なものを思考する。我々が何かを疑うことができるということは、我々が自らの内に真偽を判断する基準を持っているということにほかならない。例えば、我々は目の前にある現実を不確実なものとして判断することができるが、それは真理の基準に照らしてこそ不確実であると判断することが出来るのである。この基準こそが、感覚・知覚とは区別される理性という能力であり、この理性によって我々は数学や美学の真理といった不変化的で永遠なものを把握する。このような永遠の真理は、我々の有限な精神が創りだしたのでは有り得ず、それは神に内在するイデアによって創りだされたのである。神の精神のうちにあるイデアによってすべては創造され、我々の精神が真理を把握することが出来るのは、神的な真理が我々の精神を照らしだすことによって可能なのである。
では、我々はどのようにして神を把握することが出来るのか。アウグスティヌスによれば、神はその超越的な本性上、我々の地上的で不完全な思惟によっては把握されない。我々は神の啓示によって、愛と信仰を通じて把握することが出来るのみであって、神についての知識は我々には用意されていないのである。アウグスティヌスはこのことを「無知の知」と読んでいる。
全てが神によって創造されたとするならば、人間の罪深さや悪が存在するのはなぜか。この問いは自由意志の問いと関連する。アウグスティヌスは自由意志を認めるが、自身を含め人間の罪深さをよく感じていた彼は、自由意志を原初の人間・アダムにのみ認めた。アダムは神より「罪を犯さないことができる」という自由を与えられていたが、神の信頼に背いて原罪を犯し、これにより人間は自由を失って、「罪を犯さざるをえない」という悪状態に陥ることとなったのである。
このような罪深い人間は、ただ神の恩寵によってのみ救われることが出来る。恩寵は神が与える無償の愛であり、人間はこの超自然的な愛によってのみ真の自由、すなわち「罪を犯すことができない」自由を獲得することが出来る。つまり人間は自由意志によっては救われないのであり、誰が神の恩寵を受けて救われるかは神の意志によってあらかじめ定められているのである。また、神の恩寵は教会を通じてのみ預かることができるとし、このことによって教会に対する信仰の基盤が確立された。ちなみに、アウグスティヌスはこの自由意志の否定と予定説をもって、自由意志による救済を説くペラギウス派に反対する立場を取った。
以上のように、アウグスティヌスの思想はとりわけ愛を重んじたものであることが分かる。キリスト教には三元徳と呼ばれる三つの徳(信仰・希望・愛)があるが、アウグスティヌスによれば、人間の意志はこの神への愛によって動かされるのであり、それは物体にとっての重力のように必然的なものなのである。
※アウグスティヌスは、哲学史上初めて歴史を哲学の対象としたことでも知られる。彼は人類の歴史を六つの段階に分け、これを「神の国」と「地に国」の争いとして考える。このあたりにも、光の世界と闇の世界の戦いから世界を説明するマニ教の影響が見て取れる。アウグスティヌスにおける「神の国」とは天上に存在するもので、神と隣人への愛によって生まれるものとされるが、地上の人間のうち神に救われる者はもともと「神の国」に属する存在である。対して「地の国」は悪魔の国であり、人間の高慢な自己愛によって生まれ、そのような自己愛によって利己的に生きる人間や、神によって救われる予定の無い者はこの国に属している。地上の人間で「神の国」に属するものは、教会を通じて愛と平和を実践することで、真の平和にそなえる。彼によれば、この争いの過程は「今や最後の段階」に来ており、最後の審判が終われば、「神の国」の住人は永遠の平和を得、「地の国」の住人は永劫の罰を受けるという。
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