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吉田松陰とは?結局何をした人かをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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吉田松陰(よしだしょういん)(1830〜1859年)は、幕末の長州藩士で、松下村塾で弟子を育てた教育者です。海外へ渡ろうとして獄に入り、老中を襲う計画を自ら明かして、安政の大獄で死罪となりました。この記事では、吉田松陰が結局何をした人なのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる吉田松陰」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・松下村塾をつくったのは、誰なのか

・吉田松陰は、なぜ死罪になったのか

・吉田松陰の弟子と、松下村塾の塾生は同じなのか


1分でわかる吉田松陰


吉田松陰とは、一言でいえば、松下村塾で身分にとらわれず塾生を教え、のちに明治維新で活躍する弟子たちを育てた人です。

海外へ渡ろうとして、獄に入る

吉田松陰は長州藩の萩に生まれ、戦いの学問である兵学を教える家の養子になりました。1854年、アメリカの軍艦に近づき、海外へ渡ろうとしますが、乗船を断られます。自分から名乗り出て、獄に入れられました。

叔父の塾を受け継ぐ

国元の萩に送られた吉田松陰は、野山獄で囚人たちに中国の古典『孟子』を講義しました。出獄後は、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を受け継ぎます。身分にとらわれず塾生を受け入れ、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋らを教えました。

老中を襲う計画を明かし、死罪

1858年、天皇の許しを得ないまま結ばれた日米修好通商条約に激怒し、老中の間部詮勝を襲う計画を立てます。長州藩に危険視されて再び獄に入れられ、翌1859年、幕府が反対派を処罰した安政の大獄で江戸に送られました。取り調べの場で自分から計画を明かし、死罪となります。


海外への渡航も、老中への襲撃計画も、実現しないまま、吉田松陰は世を去りました。結局、彼がしたことは、松下村塾で弟子を育てたことです。

おまけトリビア

松下村塾の建物は、いまも萩に残っています。木造平屋で、八畳の一室を中心にした小さな建物です。2015年には「明治日本の産業革命遺産」の一部として、世界遺産に登録されました。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、吉田松陰をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■松下村塾をつくったのは誰か

松下村塾は、吉田松陰が一から建てた塾ではありません。開いたのは、彼の叔父にあたる玉木文之進です。その後、塾は親族の手に渡りました。出獄した吉田松陰のもとへ近所の若者が集まるうちに、吉田松陰が主宰者と見なされるようになります。創立者ではなく、継承者です。

塾は萩の松本村にありました。吉田松陰は、身分や階級にとらわれず塾生を受け入れました。下級の武士の子弟が中心だったとされます。

■吉田松陰の生涯


年出来事
1830年長州藩の萩に生まれる
1854年アメリカの軍艦に近づいて海外渡航を企て、失敗。自首して獄に入る
1855年萩の獄を出て、実家で謹慎となる
1858年老中・間部詮勝を襲う計画を立て、再び獄に入る
1859年江戸に送られ、安政の大獄で死罪となる


1854年、吉田松陰はペリーが再び来航した伊豆の下田で、アメリカの軍艦に漕ぎ寄せました。乗船を断られて岸に戻されると、彼は役人に自首します。江戸の獄に入れられたのち、長州藩に引き渡され、萩の野山獄に入りました。

野山獄では、囚人たちに中国の古典『孟子』を講義しました。1855年に出獄を許されると、実家の杉家で謹慎となります。それでも近所の若者が学びに集まり、謹慎の部屋が塾に変わっていきました。

■吉田松陰は、なぜ死罪になったのか

1858年、幕府は天皇の許可(勅許)を得ないまま、日米修好通商条約に調印します。吉田松陰は激怒し、老中の間部詮勝を襲う計画を立てました。藩に後援を求めますが、藩は応じず、彼を危険視して再び獄に入れました。

翌1859年、幕府が反対派を大勢処罰する安政の大獄が進むなかで、幕府は吉田松陰を江戸に呼び出します。取り調べの場で、彼は老中を襲う計画を自分から明かしました。結果は死罪です。刑が行われたのは、安政6年10月27日(1859年)、江戸の伝馬町牢屋敷でした。

最期の歌として、次の一首が伝わります。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂


この身が武蔵の野辺に朽ち果てても、大和魂だけは留めておきたい、という意味の歌です。

■弟子と塾生は同じなのか

松下村塾で学んだ人物としては、まず久坂玄瑞と高杉晋作が挙がります。2人は「松下村塾の双璧」と呼ばれました。久坂玄瑞は、のちに吉田松陰の妹と結婚しています。ほかに伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎らが、塾に学んだ人物として並びます。

ただし「松陰の弟子」と「松下村塾の塾生」は、同じとは限りません。その代表が、桂小五郎、のちの木戸孝允です。桂が吉田松陰から学んだ場所は、藩の学校である明倫館でした。1849年ごろ、兵学の師範だった吉田松陰のもとで学び、「事をなすの才あり」と評されます。松下村塾を主宰するより前の話で、桂が松下村塾の塾生になることはありませんでした。

■史実と学説

叔父の玉木文之進が塾を開き、吉田松陰が受け継いだこと、1854年に海外渡航に失敗したこと、安政の大獄で死罪となったことは、各資料で一致しています。

一方、細部には幅があります。吉田松陰が松下村塾を主宰し始めた年は、1855年から1858年まで記述が分かれます。教えた期間も、「1年余り」から「2年半余り」まで開きがあります。塾生の総数や、没したときの年齢も、記述が一致しません。
塾生の総数は、約50名とする記述と、数十名とする記述があります。没年齢は、29歳とする記述と30歳とする記述があります。


■トリビアの真相

松下村塾の建物は、国の史跡に指定され、いまも萩の松陰神社の境内に保存されています。2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されました。

塾の建物は、八畳の一室を中心にした木造平屋の小さな建物です。塾生が増えると、吉田松陰と塾生たちが力を合わせて、部屋を増築しました。

試験に出るポイント

松下村塾を開いたのは叔父の玉木文之進で、吉田松陰は継承者です。ひっかけ問題になりやすい部分です。吉田松陰は老中の間部詮勝を襲う計画を自分から明かし、安政の大獄で死罪となりました。塾で学んだ人物は、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋を軸に覚えましょう。桂小五郎(木戸孝允)が吉田松陰に兵学を学んだのは藩校の明倫館で、松下村塾の塾生ではありません。


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