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幕藩体制とは?幕府と藩による二重の支配をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】 |
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著作名:
かわちゃん
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幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、江戸時代に、幕府(将軍)と藩(大名)が全国を分け合って治めた支配の仕組みです。幕府は直轄の領地を自分で治め、残りの土地は大名にあずけました。この記事では、幕府と藩の役割分担、大名を親藩・譜代・外様に分けた区分、そして石高という物差しを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
幕藩体制とは、一言でいえば、幕府と藩が全国を二重に治めた仕組みです。
幕府は大名を統制しながら、領内の政治そのものは大名にまかせる。この二重構造が、三代将軍・徳川家光のころ、17世紀の半ばまでに固まりました。人びとは武士と百姓・町人などに分けられ、この形が幕末までの江戸時代の枠組みになります。
ここまでが1分の要約です。ここからは、幕藩体制をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
幕藩体制の土台には、豊臣政権のもとで進められた兵農分離(へいのうぶんり)があります。武士と百姓を分けるこの仕組みを、江戸幕府は受け継ぎました。幕藩体制を支える柱として、兵農分離、石高制、そして対外関係の統制(いわゆる鎖国)の三つを挙げる整理の仕方もあります。
では、幕府は全国をどう治めたのか。幕府は自分の直轄領をおさえたうえで、残りの土地の統治は大名に委ね、その大名を決まりで縛る形をとりました。
その直轄領も小さくはありません。17世紀末の元禄のころ、幕領は約400万石。将軍直属の家臣である旗本の領地約300万石を合わせると、全国の石高のおよそ4分の1にあたりました。直轄領を指す「天領(てんりょう)」は、明治になって生まれた呼び名です。旧幕府領が新政府に引き継がれたとき、朝廷の領地という意味で呼ばれたのが始まりです。
幕府と藩の受け持ちを表にまとめます。
表の⑤と⑥が、幕藩体制の大きな特徴です。幕府は大名が領地を治めることを認め、領内の政治は大名にまかせました。ただ、この仕組みの見方は分かれています。藩主の自主性を認めた地方分権的な体制とみる説明がある一方で、将軍を頂点とする中央集権的な体制とみる説明もあります。
一方で、幕府は大名を野放しにしたわけではありません。大名は親藩・譜代・外様という三つの家格に分けられ、それぞれ扱いが違いました。徳川一門である親藩、関ヶ原の戦い以前から徳川に仕えた譜代、そして関ヶ原以降に徳川に従った外様。親藩のうち、徳川家康の子を祖とする尾張・紀伊・水戸の徳川家は御三家(ごさんけ)と呼ばれ、将軍家に跡継ぎがいないときには将軍を出すこともありました。老中や京都所司代といった幕府の要職に就けたのは譜代大名です。幕府は外様の多くを、江戸から遠い土地に置きました。
この体制を貫く物差しが石高です。土地の生産力を米の量に換算して表したもので、年貢を現物で納めさせる仕組みの基礎でもありました。大名の知行も、家臣の知行も、この数字で示されます。目安として、およそ一万石以上を領する武士が大名とされました。
ただし、「幕藩体制」という言葉は、近世日本の社会のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)の主従関係を基点にしてとらえた歴史学の概念です。だから、幕藩体制がいつ始まったのかも一つに定まりません。江戸幕府が開かれた1603年を始まりとみる立場と、社会の構造が固まった時期を重くみて豊臣政権のころまでさかのぼる立場があります。
固まった体制が、そのまま二百数十年続いたわけでもありません。時代が進むと商品経済が発達し、富が町人のもとに集まっていきます。年貢米を財政の柱にしていた幕府と諸藩は、そのぶん相対的に苦しくなりました。19世紀に入ると外国からの圧力も加わり、幕藩体制は財政と対外の両面から揺らいでいきます。米の量ではかる仕組みが、米ではかれない商品経済に追いつけなくなったのです。
藩の数が確定しない理由も、この体制の性格から説明できます。まず、大名の家は固定されたものではありませんでした。幕府は改易によって大名を取りつぶすことができ、家の顔ぶれは入れ替わります。だから「江戸時代の藩の数」は、いつの時点を切り取るかで変わってしまう。
さらに、数え方の問題もあります。17世紀末について大名243家と計算した集計があり、約270にのぼるとする説明があり、300から350ほどとする説明もあります。どれかが間違っているというより、対象とする時期と、何を一つと数えるかが違うのです。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる幕藩体制」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。
・幕府は全国をどう分けて治めたのか
・親藩・譜代・外様はどこに置かれたのか
・藩の数はなぜ確定しないのか
さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。
・幕府は全国をどう分けて治めたのか
・親藩・譜代・外様はどこに置かれたのか
・藩の数はなぜ確定しないのか
1分でわかる幕藩体制
幕藩体制とは、一言でいえば、幕府と藩が全国を二重に治めた仕組みです。
幕府が直接治めたのは、直轄領だけ
幕府は全国を、直轄領である幕領(ばくりょう)と、大名にあずける領地とに分けました。大名には、その領地と人びとを直接支配する権限が与えられます。この大名の領地と支配の仕組みが藩です。
幕府は全国を、直轄領である幕領(ばくりょう)と、大名にあずける領地とに分けました。大名には、その領地と人びとを直接支配する権限が与えられます。この大名の領地と支配の仕組みが藩です。
大名は親藩・譜代・外様に分けられた
徳川一門は親藩(しんぱん)、関ヶ原の戦い以前からの家臣は譜代(ふだい)、それ以降に従った大名は外様(とざま)。外様は江戸から遠い土地に置かれることが多く、幕府の役職には譜代が就きました。
徳川一門は親藩(しんぱん)、関ヶ原の戦い以前からの家臣は譜代(ふだい)、それ以降に従った大名は外様(とざま)。外様は江戸から遠い土地に置かれることが多く、幕府の役職には譜代が就きました。
全体を貫く物差しが石高
土地の生産力を米の量ではかったものが石高(こくだか)です。おおよそ一万石以上を領する武士が大名と呼ばれ、石高は江戸時代を通じて武士の知行の基準になりました。
土地の生産力を米の量ではかったものが石高(こくだか)です。おおよそ一万石以上を領する武士が大名と呼ばれ、石高は江戸時代を通じて武士の知行の基準になりました。
幕府は大名を統制しながら、領内の政治そのものは大名にまかせる。この二重構造が、三代将軍・徳川家光のころ、17世紀の半ばまでに固まりました。人びとは武士と百姓・町人などに分けられ、この形が幕末までの江戸時代の枠組みになります。
おまけトリビア
藩がいくつあったのか、実ははっきり決まっていません。17世紀末で243家とする数え方もあれば、約270とするもの、300から350ほどとするものも。時期と数え方しだいで、これだけ変わるんです。
藩がいくつあったのか、実ははっきり決まっていません。17世紀末で243家とする数え方もあれば、約270とするもの、300から350ほどとするものも。時期と数え方しだいで、これだけ変わるんです。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、幕藩体制をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■幕藩体制の背景
幕藩体制の土台には、豊臣政権のもとで進められた兵農分離(へいのうぶんり)があります。武士と百姓を分けるこの仕組みを、江戸幕府は受け継ぎました。幕藩体制を支える柱として、兵農分離、石高制、そして対外関係の統制(いわゆる鎖国)の三つを挙げる整理の仕方もあります。
では、幕府は全国をどう治めたのか。幕府は自分の直轄領をおさえたうえで、残りの土地の統治は大名に委ね、その大名を決まりで縛る形をとりました。
その直轄領も小さくはありません。17世紀末の元禄のころ、幕領は約400万石。将軍直属の家臣である旗本の領地約300万石を合わせると、全国の石高のおよそ4分の1にあたりました。直轄領を指す「天領(てんりょう)」は、明治になって生まれた呼び名です。旧幕府領が新政府に引き継がれたとき、朝廷の領地という意味で呼ばれたのが始まりです。
■幕府と藩の役割分担
幕府と藩の受け持ちを表にまとめます。
| 担い手 | 受け持った範囲 |
| ①幕府 | 直轄領(幕領)の直接支配 |
| ②幕府 | 武家諸法度など、大名を縛る決まりの制定 |
| ③幕府 | 参勤交代・改易による大名の統制 |
| ④幕府 | 全国に共通する枠組み(身分・対外関係)の管理 |
| ⑤藩(大名) | あずかった領地と領民の直接支配 |
| ⑥藩(大名) | 幕府の決まりに従ったうえでの、領内の政治 |
表の⑤と⑥が、幕藩体制の大きな特徴です。幕府は大名が領地を治めることを認め、領内の政治は大名にまかせました。ただ、この仕組みの見方は分かれています。藩主の自主性を認めた地方分権的な体制とみる説明がある一方で、将軍を頂点とする中央集権的な体制とみる説明もあります。
一方で、幕府は大名を野放しにしたわけではありません。大名は親藩・譜代・外様という三つの家格に分けられ、それぞれ扱いが違いました。徳川一門である親藩、関ヶ原の戦い以前から徳川に仕えた譜代、そして関ヶ原以降に徳川に従った外様。親藩のうち、徳川家康の子を祖とする尾張・紀伊・水戸の徳川家は御三家(ごさんけ)と呼ばれ、将軍家に跡継ぎがいないときには将軍を出すこともありました。老中や京都所司代といった幕府の要職に就けたのは譜代大名です。幕府は外様の多くを、江戸から遠い土地に置きました。
■史実と学説
この体制を貫く物差しが石高です。土地の生産力を米の量に換算して表したもので、年貢を現物で納めさせる仕組みの基礎でもありました。大名の知行も、家臣の知行も、この数字で示されます。目安として、およそ一万石以上を領する武士が大名とされました。
ただし、「幕藩体制」という言葉は、近世日本の社会のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)の主従関係を基点にしてとらえた歴史学の概念です。だから、幕藩体制がいつ始まったのかも一つに定まりません。江戸幕府が開かれた1603年を始まりとみる立場と、社会の構造が固まった時期を重くみて豊臣政権のころまでさかのぼる立場があります。
始期については、1603年の幕府創設とする説と、1590年の豊臣政権による全国統一を始期とする説があります。どちらの説でも「その年に完成した」わけではなく、最終的に固まったのは17世紀の中ごろとみられています。
固まった体制が、そのまま二百数十年続いたわけでもありません。時代が進むと商品経済が発達し、富が町人のもとに集まっていきます。年貢米を財政の柱にしていた幕府と諸藩は、そのぶん相対的に苦しくなりました。19世紀に入ると外国からの圧力も加わり、幕藩体制は財政と対外の両面から揺らいでいきます。米の量ではかる仕組みが、米ではかれない商品経済に追いつけなくなったのです。
■トリビアの真相
藩の数が確定しない理由も、この体制の性格から説明できます。まず、大名の家は固定されたものではありませんでした。幕府は改易によって大名を取りつぶすことができ、家の顔ぶれは入れ替わります。だから「江戸時代の藩の数」は、いつの時点を切り取るかで変わってしまう。
さらに、数え方の問題もあります。17世紀末について大名243家と計算した集計があり、約270にのぼるとする説明があり、300から350ほどとする説明もあります。どれかが間違っているというより、対象とする時期と、何を一つと数えるかが違うのです。
試験に出るポイント
「親藩=徳川一門/譜代=関ヶ原以前からの家臣/外様=関ヶ原以後に従った大名」の区別と、外様が江戸から遠くに置かれたこと、幕府の要職に就いたのが譜代であることが頻出です。あわせて「大名=一万石以上」「石高=土地の生産力を米の量で表したもの」も押さえておきましょう。
「親藩=徳川一門/譜代=関ヶ原以前からの家臣/外様=関ヶ原以後に従った大名」の区別と、外様が江戸から遠くに置かれたこと、幕府の要職に就いたのが譜代であることが頻出です。あわせて「大名=一万石以上」「石高=土地の生産力を米の量で表したもの」も押さえておきましょう。
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