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薩摩藩と長州藩はなぜ倒幕を目指したのかをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】 |
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著作名:
かわちゃん
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薩摩藩と長州藩はなぜ倒幕を目指したのでしょうか。薩摩藩はイギリスの艦隊と、長州藩はイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国の艦隊と戦って外国の強さを知りましたが、そこからすぐに倒幕を掲げ、幕府と対立したわけではありません。この記事では、二つの藩がなぜ倒幕を目指すようになったのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
攘夷から倒幕へとは、一言でいえば、幕府の改革に見切りをつけた薩摩藩と、幕府の討伐を受けた長州藩が、それぞれの事情から倒幕を目指すようになった流れです。
禁門の変では敵として戦った薩摩藩と長州藩ですが、1866年、坂本龍馬らの仲介で歩み寄り、薩長同盟を結びます。薩摩藩は、長州藩の武器の購入も助けました。同じ年の第二次長州征討で、薩摩藩は出兵を断ります。幕府の軍は長州藩に負け、幕府の権威は大きく落ちました。以後は、幕府を倒す動きが強まっていきます。
ここまでが1分の要約です。ここからは、攘夷から倒幕への流れをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
薩摩藩は1862年の生麦事件をきっかけに、1863年、鹿児島湾でイギリスの艦隊と戦いました(薩英戦争)。双方に大きな損害が出て、講和します。薩摩藩はイギリスの力を知って攘夷は難しいと考えるようになり、その後はイギリスに近づきました。
長州藩は1863年に下関海峡で外国船を砲撃し、アメリカとフランスの軍艦から反撃を受けました。奇兵隊を結成するなど軍備を強めましたが、翌1864年には、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの艦隊に下関を攻められて敗れ、攘夷は難しいと知りました。
攘夷が難しいと知ることと、幕府を倒そうとすることは同じではありません。このあと薩摩藩は幕府の側で長州藩を攻める軍に加わり、長州藩は幕府に従う姿勢を示します。
薩摩藩は、朝廷と幕府が協力して政治を立て直す公武合体の立場でした。1862年には、藩主の父の島津久光が江戸へ向かい、幕府に改革を求めています。1863年の八月十八日の政変では会津藩とともに長州藩を京都から追放し、1864年の禁門の変でも長州藩と戦いました。
1864年に幕府が第一次長州征討を行うと、薩摩藩は幕府側に加わります。参謀を務めた西郷隆盛は、長州藩を謝罪させる交渉にあたりました。
ところが、薩摩藩が求めた幕府の改革は見通しが立たず、藩内では西郷隆盛や大久保利通らを中心に、幕府への強硬論が高まります。公武合体の立場は勢いを失い、薩摩藩は倒幕の方向に傾きました。
1865年に幕府が長州藩への再度の出兵を進めると、薩摩藩はこれに反対し、翌1866年には出兵を断りました。
長州藩は、天皇を敬い外国を退ける尊王攘夷を、急進的に進めていました。1863年の八月十八日の政変で京都を追われ、1864年に京都へ兵を進めましたが、禁門の変に負けます。御所に向かって発砲したことから朝敵とされ、幕府は第一次長州征討の兵を出しました。
長州藩は、禁門の変の直後にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国の艦隊にも敗れ、藩内では幕府に従う保守派が実権を握りました。保守派は、禁門の変の責任者とされた家老らを処罰して謝罪の意を示し、幕府軍は戦わずに引き揚げます。(第一次長州征討)
元治元年の暮れ(1865年の初め)、この保守派の政権に対して、高杉晋作が奇兵隊などを率いて下関で挙兵しました。この内戦に勝つと、倒幕派が藩の主導権を握り、藩の方針を幕府との軍事対決の方向に定めます。
慶応2年1月(1866年)、坂本龍馬と中岡慎太郎らの仲介で、京都で薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀らと、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が6か条の同盟(薩長同盟)を結びます。薩摩藩は藩の名義を貸して、長州藩が外国から武器を買えるよう助けてもいます。
6か条の中心は、幕府と長州藩が戦えば薩摩藩が兵を京都や大坂に送り、長州藩が許されるよう朝廷に働きかける、という約束です。
慶応2年6月(1866年)、幕府は長州藩を再び攻めました(第二次長州征討)。薩摩藩は出兵を断り、洋式の兵器を備えた長州藩の前に、幕府軍は苦戦します。慶応2年7月(1866年)に将軍の徳川家茂が大坂城で亡くなったこともあって、幕府は兵を引きました。
幕府の権威は大きく傷つき、以後は幕府を倒す動きが強まっていきます。
確かなのは、二つの藩が外国の艦隊と戦ったこと、長州藩が禁門の変に負けて討伐を受けたこと、1866年に薩長同盟が結ばれたこと、第二次長州征討で幕府が敗れたことです。
見方が分かれる点もあります。ひとつは、二つの藩の歩みの違いです。「攘夷から倒幕へ」とまとめて言われますが、薩摩藩はもともと公武合体の立場で、尊王攘夷から倒幕に転じたという歩みではありません。もうひとつは、薩長同盟の性格です。倒幕のための軍事同盟と説明されることが多い一方で、6か条の中身は、長州藩の復権の後押しと、第二次長州征討への備えが中心です。最初から倒幕を目的にしていたのかは、見方が分かれています。
奇兵隊は、1863年にアメリカとフランスの軍艦から反撃を受けたあと、長州藩の高杉晋作が組織しました。武士に加えて農民や町人も入った点が特色で、のちの第二次長州征討でも長州藩の戦力となりました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる攘夷から倒幕へ」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・攘夷は難しいと知った二つの藩は、なぜすぐには幕府と対立しなかったのか
・薩摩藩は、なぜ幕府から離れていったのか
・長州藩は、どのようにして幕府と戦う道を選んだのか
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・攘夷は難しいと知った二つの藩は、なぜすぐには幕府と対立しなかったのか
・薩摩藩は、なぜ幕府から離れていったのか
・長州藩は、どのようにして幕府と戦う道を選んだのか
1分でわかる攘夷から倒幕へ
攘夷から倒幕へとは、一言でいえば、幕府の改革に見切りをつけた薩摩藩と、幕府の討伐を受けた長州藩が、それぞれの事情から倒幕を目指すようになった流れです。
攘夷は難しいと知っても、すぐには倒幕にならなかった
薩摩藩は1863年にイギリスの艦隊と、長州藩は1864年にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国の艦隊と戦い、外国の軍事力の強さを知りました。攘夷(外国を退けること)は難しいと考えるようになりましたが、ただちに幕府と対立したわけではありません。
薩摩藩は1863年にイギリスの艦隊と、長州藩は1864年にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国の艦隊と戦い、外国の軍事力の強さを知りました。攘夷(外国を退けること)は難しいと考えるようになりましたが、ただちに幕府と対立したわけではありません。
幕府の改革に見切りをつけた薩摩藩
薩摩藩は、朝廷と幕府が協力して政治を立て直す公武合体の立場でした。しかし、薩摩藩が求めた幕府の改革は見通しが立たず、西郷隆盛らを中心に幕府への不満が強まります。やがて薩摩藩は、倒幕の方向へ傾いていきました。
薩摩藩は、朝廷と幕府が協力して政治を立て直す公武合体の立場でした。しかし、薩摩藩が求めた幕府の改革は見通しが立たず、西郷隆盛らを中心に幕府への不満が強まります。やがて薩摩藩は、倒幕の方向へ傾いていきました。
討伐を受けて、幕府と戦う道を選んだ長州藩
長州藩は、1864年の禁門の変に負けて朝敵とされ、幕府の討伐を受けました。いったんは幕府に従いましたが、倒幕派の高杉晋作らが挙兵して藩の主導権を握り、幕府と戦う構えを固めました。
長州藩は、1864年の禁門の変に負けて朝敵とされ、幕府の討伐を受けました。いったんは幕府に従いましたが、倒幕派の高杉晋作らが挙兵して藩の主導権を握り、幕府と戦う構えを固めました。
禁門の変では敵として戦った薩摩藩と長州藩ですが、1866年、坂本龍馬らの仲介で歩み寄り、薩長同盟を結びます。薩摩藩は、長州藩の武器の購入も助けました。同じ年の第二次長州征討で、薩摩藩は出兵を断ります。幕府の軍は長州藩に負け、幕府の権威は大きく落ちました。以後は、幕府を倒す動きが強まっていきます。
おまけトリビア
長州藩の奇兵隊は、武士だけでなく農民や町人も加わった軍隊です。1863年にアメリカとフランスの軍艦から反撃を受けたあと、高杉晋作が組織しました。
長州藩の奇兵隊は、武士だけでなく農民や町人も加わった軍隊です。1863年にアメリカとフランスの軍艦から反撃を受けたあと、高杉晋作が組織しました。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、攘夷から倒幕への流れをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■攘夷は難しいと知っても、すぐには倒幕にならなかった
薩摩藩は1862年の生麦事件をきっかけに、1863年、鹿児島湾でイギリスの艦隊と戦いました(薩英戦争)。双方に大きな損害が出て、講和します。薩摩藩はイギリスの力を知って攘夷は難しいと考えるようになり、その後はイギリスに近づきました。
長州藩は1863年に下関海峡で外国船を砲撃し、アメリカとフランスの軍艦から反撃を受けました。奇兵隊を結成するなど軍備を強めましたが、翌1864年には、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの艦隊に下関を攻められて敗れ、攘夷は難しいと知りました。
攘夷が難しいと知ることと、幕府を倒そうとすることは同じではありません。このあと薩摩藩は幕府の側で長州藩を攻める軍に加わり、長州藩は幕府に従う姿勢を示します。
■薩摩藩は、なぜ幕府から離れていったのか
薩摩藩は、朝廷と幕府が協力して政治を立て直す公武合体の立場でした。1862年には、藩主の父の島津久光が江戸へ向かい、幕府に改革を求めています。1863年の八月十八日の政変では会津藩とともに長州藩を京都から追放し、1864年の禁門の変でも長州藩と戦いました。
1864年に幕府が第一次長州征討を行うと、薩摩藩は幕府側に加わります。参謀を務めた西郷隆盛は、長州藩を謝罪させる交渉にあたりました。
ところが、薩摩藩が求めた幕府の改革は見通しが立たず、藩内では西郷隆盛や大久保利通らを中心に、幕府への強硬論が高まります。公武合体の立場は勢いを失い、薩摩藩は倒幕の方向に傾きました。
1865年に幕府が長州藩への再度の出兵を進めると、薩摩藩はこれに反対し、翌1866年には出兵を断りました。
■長州藩は、どのようにして幕府と戦う道を選んだのか
長州藩は、天皇を敬い外国を退ける尊王攘夷を、急進的に進めていました。1863年の八月十八日の政変で京都を追われ、1864年に京都へ兵を進めましたが、禁門の変に負けます。御所に向かって発砲したことから朝敵とされ、幕府は第一次長州征討の兵を出しました。
長州藩は、禁門の変の直後にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国の艦隊にも敗れ、藩内では幕府に従う保守派が実権を握りました。保守派は、禁門の変の責任者とされた家老らを処罰して謝罪の意を示し、幕府軍は戦わずに引き揚げます。(第一次長州征討)
元治元年の暮れ(1865年の初め)、この保守派の政権に対して、高杉晋作が奇兵隊などを率いて下関で挙兵しました。この内戦に勝つと、倒幕派が藩の主導権を握り、藩の方針を幕府との軍事対決の方向に定めます。
■薩長同盟から、第二次長州征討へ
慶応2年1月(1866年)、坂本龍馬と中岡慎太郎らの仲介で、京都で薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀らと、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が6か条の同盟(薩長同盟)を結びます。薩摩藩は藩の名義を貸して、長州藩が外国から武器を買えるよう助けてもいます。
6か条の中心は、幕府と長州藩が戦えば薩摩藩が兵を京都や大坂に送り、長州藩が許されるよう朝廷に働きかける、という約束です。
慶応2年6月(1866年)、幕府は長州藩を再び攻めました(第二次長州征討)。薩摩藩は出兵を断り、洋式の兵器を備えた長州藩の前に、幕府軍は苦戦します。慶応2年7月(1866年)に将軍の徳川家茂が大坂城で亡くなったこともあって、幕府は兵を引きました。
幕府の権威は大きく傷つき、以後は幕府を倒す動きが強まっていきます。
■史実と学説
確かなのは、二つの藩が外国の艦隊と戦ったこと、長州藩が禁門の変に負けて討伐を受けたこと、1866年に薩長同盟が結ばれたこと、第二次長州征討で幕府が敗れたことです。
見方が分かれる点もあります。ひとつは、二つの藩の歩みの違いです。「攘夷から倒幕へ」とまとめて言われますが、薩摩藩はもともと公武合体の立場で、尊王攘夷から倒幕に転じたという歩みではありません。もうひとつは、薩長同盟の性格です。倒幕のための軍事同盟と説明されることが多い一方で、6か条の中身は、長州藩の復権の後押しと、第二次長州征討への備えが中心です。最初から倒幕を目的にしていたのかは、見方が分かれています。
倒幕は「討幕」とも書かれ、長州征討は「長州征伐」とも呼ばれます。
■トリビアの真相
奇兵隊は、1863年にアメリカとフランスの軍艦から反撃を受けたあと、長州藩の高杉晋作が組織しました。武士に加えて農民や町人も入った点が特色で、のちの第二次長州征討でも長州藩の戦力となりました。
試験に出るポイント
薩摩藩は公武合体の立場から、第一次長州征討には幕府側で加わりましたが、のちに倒幕の方向へ傾きました。長州藩は禁門の変に負けて朝敵とされ、高杉晋作らが挙兵して主導権を握りました。1866年に薩長同盟(仲介は坂本龍馬ら)が結ばれ、薩摩藩は第二次長州征討への出兵を断り、幕府は長州藩に敗れて権威を落としました。
薩摩藩は公武合体の立場から、第一次長州征討には幕府側で加わりましたが、のちに倒幕の方向へ傾きました。長州藩は禁門の変に負けて朝敵とされ、高杉晋作らが挙兵して主導権を握りました。1866年に薩長同盟(仲介は坂本龍馬ら)が結ばれ、薩摩藩は第二次長州征討への出兵を断り、幕府は長州藩に敗れて権威を落としました。
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