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信長の後継者争いとは?清洲会議から秀吉の天下までをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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信長の後継者争い(のぶながのこうけいしゃあらそい)とは、1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が同時に世を去ったあと、織田家の跡目と実権をめぐって家臣・一族が争い、家臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が天下人の座を握るまでの3年間の政治の動きです。この記事では清洲会議・賤ヶ岳の戦い・小牧・長久手の戦いを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる信長の後継者争い」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・清洲会議での争点は何か

・なぜ筆頭家老の勝家が押し切られたのか

・信長の息子たちはどこで脱落したのか


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1分でわかる信長の後継者争い


信長の後継者争いとは、一言でいえば、信長の家臣であった秀吉が、主家の織田家を追い出し天下人にまで上り詰めた過程です。

1582年6月27日、清洲会議

本能寺の変から数週間後、尾張の清洲城(現在の愛知県清須市)に宿老の4人「柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉」が集まりました。信長の孫でまだ3歳の三法師(のちの織田秀信)が家督を継ぎ、傅役(もりやく/世話係)には堀秀政が付き、そして信長の領地が配分されることが決まりました。


1583年、賤ヶ岳の戦い

会議の決定に不満を残した柴田勝家は、信長の三男・信孝と結んで秀吉と対立。翌年、近江の賤ヶ岳で敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害しました。


1584年、小牧・長久手の戦い

続いて信長の次男・織田信雄(のぶかつ)が徳川家康と結び、秀吉と各地で戦います。長久手では織田・徳川方が勝ちましたが全体では決着がつかず、同年11月に信雄が和議を結び、家康も続きました。


信長の死後3年間で、信長の重臣と息子たちは次々と退場します。そして1585年(天正13年)7月、秀吉は関白の座に就きました。

おまけトリビア

「秀吉が幼い三法師を抱いて上座に据え、重臣たちを平伏させた」という有名な場面は、江戸時代に書かれた『川角太閤記』が伝えるものです。会議から数十年後の書物のため、後世の脚色が入っているという見方があります。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、もう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■争いが始まった背景


1582年6月2日、京都の本能寺にいた織田信長が明智光秀に討たれ、同じ日、二条新御所にいた嫡男の織田信忠も命を落としました。織田家は、当主と後継ぎを一日で同時に失ったのです。

このとき織田家の主力は各地に散っていました。中国地方にいた秀吉はただちに引き返し、6月13日の山崎の合戦で光秀を討ちます。一方、北陸で上杉氏と向き合う筆頭家老の柴田勝家は背後を空けられず、討伐に間に合いませんでした。「主君の仇を討った」という一点で、家中の力関係はすでに動いていました。

■清洲会議で決まったこと


6月27日、清洲城に集まったのは宿老4人。決まったのは家督と領地の2つでした。

項目決まった内容
家督信忠の子・三法師。傅役は堀秀政
信雄・信孝信雄が尾張、信孝が美濃を相続
秀吉山城・河内などを加えて28万石の加増
勝家越前を安堵のうえ、長浜城と北近江3郡
長秀・恒興長秀は若狭と近江2郡、恒興は摂津3郡


注目すべきは領地の中身です。秀吉が得た山城は京都を含み、河内はその隣。加増の石高でも勝家を上回り、会議を境に力関係は入れ替わります。

■会議の争点は「後継者」だったのか


長く語られてきたのは、こんな筋書きです。
信長の次男・信雄と三男・信孝が家督を主張して譲らず、その隙をついた秀吉が嫡孫・三法師を担ぎ出した。勝家は信孝を推して反対したが、光秀を討った秀吉の功績には対抗できなかった。

ところが近年は、違う読み方も示されています。
長男の信忠に何かあれば嫡孫の三法師が家督を継ぐことは信長の存命中からの決定事項で、家中に異論はなかった。会議が清洲城で開かれたのも、三法師がその城にいたからだ。この立場では、本当の争点は三法師が成人するまで「名代」を置くかどうかであり、信雄と信孝の対立もそこにありました。結局どちらも支持をまとめきれず、名代は置かれないまま4人の宿老が幼い当主を支える形に落ち着いたという説です。

どちらの見方でも変わらないのは、この会議が遺臣たちの今後の立ち位置を決める場だったこと。家臣たちにとって誰を推すかは、そのまま自分の取り分に直結していました。

清洲会議の性格づけは、「信長の後継者を決めた会議」とする説と、「後継者は決まっており、幼い当主を支える体制を決めた会議」とする説が並立しています。


■勝家の脱落と、息子たちの脱落


会議のあと、秀吉は動きを速めます。10月には京都の大徳寺で信長の葬儀を大々的に執り行い、跡を継ぐのは自分だと世に示しました。反発した勝家は信孝と結び、反秀吉の陣営を作ります。さらに秀吉は勝家を除く宿老たちと諮って清洲会議の枠組みを組み替えます。幼い三法師に代わって織田家を動かす立場に信雄を就けたのです。会議で作られた体制は、わずか数か月で形を変えたのです。

1583年(天正11年)4月、両者は近江の賤ヶ岳で激突。敗れた勝家は北ノ庄城でお市の方(信長の妹、勝家に嫁いでいた)とともに自害し、後ろ盾を失った信孝も自害に追い込まれました。

残ったのは信雄ですが、秀吉の関係が悪化しました。1584年(天正12年)、信雄は徳川家康と結んで挙兵します。小牧・長久手の戦いです。長久手では池田恒興らが討たれて織田・徳川方が勝ちましたが、全体としては膠着。同年11月、信雄は伊賀と伊勢半国を渡して単独で和議を結び、家康も次男を秀吉のもとへ送りました。

■トリビアの真相


三法師を抱いた秀吉に重臣たちが平伏するという映画やドラマでおなじみのこの場面の出どころは、江戸時代初期に成立した『川角太閤記』です。会議から数十年後に書かれた伝記で、後世の書き足しが多いことが知られています。同じ時期の信頼できる記録には、三法師の擁立をめぐる激しい論争の形跡が乏しく、そのまま史実として扱うのは慎重であるべきだという指摘があります。

もっとも、脚色が入っていたとしても秀吉の政治力が幻だったわけではありません。会議のわずか3年後、彼は関白の座に就いています。劇的な一場面よりも、根回しと領地の取り分という地味な部分にこそ強さがあったのかもしれません。

試験に出るポイント

1582年の清洲会議で三法師(織田秀信)が家督を継ぐ、1583年の賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破る、1584年の小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康と戦い和議を結ぶ、1585年に秀吉が関白になる。この4つの年号と順序が頻出です。清洲会議の性格は断定せず「見方が分かれる」と押さえておくとよいでしょう。



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