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推古天皇とは?日本初の女性天皇の実像をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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推古天皇(すいこてんのう)とは、592年に即位した、日本で最初の女性天皇とされる人物です。厩戸王(聖徳太子)・蘇我馬子とともに飛鳥時代の国づくりを進めました。この記事では、即位の経緯から36年の治世、その実像の見直しまでを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる推古天皇」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・「聖徳太子が主役」は本当なのか

・なぜ最初の女性天皇が生まれたのか

・後継者を指名しなかった最期


1分でわかる推古天皇


推古天皇とは、一言でいえば、厩戸王(聖徳太子)と蘇我馬子を従えて36年君臨した、飛鳥時代の最高権力者です。

暗殺事件の後に、群臣に推されて即位

欽明天皇の皇女で、本名は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。敏達天皇の皇后を務めたのち、592年に崇峻天皇が暗殺されるという異常事態を受けて、群臣に推されて即位しました。

「3人の中枢」で進めた国づくり

政治は、甥の厩戸王(聖徳太子)と大臣・蘇我馬子とともに。この3人が政権の中枢だったと考えられています。冠位十二階(603年)・憲法十七条(604年)・遣隋使(607年)と、飛鳥を代表する政策はすべてこの朝廷から生まれました。

「お飾り」ではなかった

かつては聖徳太子が政治を主導したと語られてきましたが、近年は推古天皇自身の主体性が見直されつつあります。仏教の振興や『天皇記』『国記』の編纂も、この治世の事績です。


628年、後継者をあえて指名しないまま、75歳で世を去ります。皇位は田村皇子(のちの舒明天皇)へ。そして時代は、大化の改新へと動いていきます。

おまけトリビア

「推古」は、のちの時代に贈られた名前です。本名は額田部皇女、和風の贈り名は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)。名前だけで3つの顔を持つ天皇なんです。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、推古天皇をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

推古天皇の背景


母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)。つまり推古天皇は蘇我氏の血を引き、大臣・蘇我馬子は母方の叔父にあたります。当時は馬子が物部守屋を倒し、蘇我氏の権勢が頂点に向かう時代でした。

592年、崇峻天皇が暗殺されるという前代未聞の事件が起きます。その直後、皇位継承の混乱を収める形で即位したのが、敏達天皇の皇后だった額田部皇女——推古天皇でした。女性の即位はそれまでに例がなく、「最初の女性天皇」とされるのはこのためです。

人物と流れ


出来事
554年欽明天皇の皇女として生まれる
576年敏達天皇の皇后となる
592年崇峻天皇暗殺の後、即位
593年厩戸王(聖徳太子)を皇太子としたと『日本書紀』は伝える
603年・604年冠位十二階・憲法十七条を制定
607年小野妹子を隋へ派遣(遣隋使)
620年『天皇記』『国記』の編纂と伝わる
628年後継を指名せず崩御(75歳)


史実と学説


いちばんの論点は「実権は誰にあったか」です。かつての定番は「聖徳太子が摂政として政治を主導した」という説明でした。しかし現在は、伝説化された太子像の見直しとあわせて、推古天皇・蘇我馬子・厩戸王の3人が政権の中枢を構成したという見方が有力になっています。そもそも6世紀末には「皇太子」という地位自体が制度として存在していなかったという指摘もあり、『日本書紀』の記述をどう理解するかは議論が続いています。

「日本初の女性天皇」という表現も、資料によって前提の置き方に幅があります。また、崩御の日付も史料の暦の扱いによって記述が分かれるため、このテキストでは「628年」までにとどめています。

推古天皇の即位年は592年(崇峻5年12月)とする資料と593年とする資料があります。教材では「592年即位」が一般的です。


トリビアの真相


要約で触れた「3つの名前」を整理すると、生前の本名(諱)が額田部皇女、天皇としての和風の贈り名(諡号)が豊御食炊屋姫尊、そして漢風の贈り名が推古天皇です。私たちが呼んでいる「推古」は、本人が聞いたことのない名前——歴代の天皇の多くに共通する話ですが、教科書の人名の見え方が少し変わるトリビアです。

そして最期の逸話。崩御の前日、推古天皇は田村皇子と山背大兄王という後継候補の二人にそれぞれ言葉を残しながら、どちらを次の天皇にするかは指名しなかったと伝えられます。672年の壬申の乱よりずっと前から、皇位継承は綱渡りだったのです。

試験に出るポイント

592年即位・在位36年。「推古天皇+厩戸王(聖徳太子)+蘇我馬子」の3人組と、603年冠位十二階→604年憲法十七条→607年遣隋使の年号の流れが最頻出。母方が蘇我氏(堅塩媛)である点も問われます。


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