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長篠の戦いとは?「三段撃ち」見直しの理由までわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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長篠の戦い(ながしののたたかい)とは、1575年(天正3年)、三河国の設楽原(したらがはら)で、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を破った合戦です。「鉄砲の三段撃ち」で有名ですが、実はこの戦法、現在では疑問視する見方が広がっています。この記事では、合戦の流れと勝因、そして通説の見直しを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる長篠の戦い」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・「三段撃ち」はどこから来た話なのか

・鉄砲は何挺あったのか

・三段撃ちなしで、なぜ勝てたのか


1分でわかる長篠の戦い


長篠の戦いとは、一言でいえば、鉄砲と陣地で武田軍を破り、戦国の流れを変えた合戦です。

織田・徳川 対 武田の決戦

天正3年(1575年)5月、武田勝頼の軍が三河の長篠城を包囲。救援に駆けつけた織田信長・徳川家康の連合軍が、近くの設楽原で武田軍と激突しました。舞台は現在の愛知県新城市です。

「三段撃ち」は見直されている

三千挺の鉄砲を三列に分けて撃ち続けた。この有名な物語は、現在では疑問視する説があります。鉄砲の数も「約千挺」とする記録があり、諸説ある状態です。

勝因は「野戦築城」

連合軍は馬防柵や土塁で陣地を固めました。野戦なのに城を築くような、当時の日本では異例の作戦です。武田軍は多くの武将と兵を失って大敗し、7年後の1582年、武田氏は滅亡します。


「三段撃ちの長篠」というイメージは、いま静かに書き換えられつつあります。中学生向けの教材には、三段撃ちに触れない書き方も見られるようになりました。

おまけトリビア

包囲された長篠城から抜け出し、援軍を要請した鳥居強右衛門(とりいすねえもん)。帰り道で武田軍に捕らえられ、「援軍は来ないと叫べ」と命じられましたが、逆に「援軍は来るぞ」と城に向かって叫び、処刑されたと伝えられています。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、長篠の戦いをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■長篠の戦いの背景


武田勝頼は、武田信玄の跡を継いだ甲斐武田氏の当主です。天正3年(1575年)5月、勝頼は徳川方の長篠城を包囲しました。守備側はわずか500人ほどと伝わり、城は陥落寸前。ここで密使として城を脱出したのが鳥居強右衛門で、援軍の要請を受けた信長・家康の連合軍が設楽原に布陣し、決戦を迎えます。

■合戦の流れ


日付(天正3年)出来事
5月武田軍が長篠城を包囲
5月18日信長・家康の連合軍が設楽原に布陣
5月21日決戦。早朝から約8時間に及ぶ戦いで武田軍が大敗


連合軍は、川沿いの丘陵地形を活かして馬防柵と土塁の陣地を築き、そこに鉄砲を集中させました。武田軍は正面からの攻撃を選び、大きな損害を出して敗走します。

■史実と学説


三段撃ちの扱いは、どこを見るかでまるで違います。事実としてそのまま記すものもあれば、「伝えられているが、実技の面から疑問とする説もある」と両論を並べるものもあります。はっきり否定するものもありますし、中学生向けの教材や、古戦場のある新城市の公式ページのように、三段撃ちにまったく触れないものもあります。ここまで割れている以上、「三段撃ちがあった」とも「なかった」とも言い切れません。

鉄砲の数も同じです。「三千挺」とするものが多い一方、「千挺ばかり」と記す資料もあり、数字は諸説あります。

武田軍の損害も、実は一つに決まっていません。「一万人以上」とするものがある一方、「武田方の損害は千人」とする説を併記するものもあります。この記事で人数を挙げていないのは、そのためです。

一方で、資料がおおむね一致するのは勝因の説明です。馬防柵・土塁・人工の急斜面で守りを固めた「野戦築城」に鉄砲を組み合わせた戦い方は、当時の日本では異例のものでした。三段撃ちという曲芸的な戦法がなくても、この陣地戦だけで武田軍に大打撃を与えられた、と考えられています。

「武田の騎馬隊」という言葉は今も広く使われますが、組織的な「騎馬隊」として編成されていたかには議論があります。ただし、騎馬武者の集団が突撃してきたこと自体は、当時の記録からもうかがえます。三段撃ちの話とは違い、「騎馬隊はいなかった」とまでは言えません。


■トリビアの真相


鳥居強右衛門の話は、後世に書かれた軍記物を通じて広まったものです。城を抜け出した経路も、叫んだ言葉も、細部まで史実かどうかは確かめようがありません。それでも、命と引き換えに城を守った男の物語として、400年以上語り継がれてきました。長篠城址のある新城市には、今も古戦場の史跡が残されています。

試験に出るポイント

「1575年・織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼を破る・鉄砲を活用した集団戦法」が基本セット。場所は三河国の設楽原(現在の愛知県新城市)。この敗戦を機に武田氏は衰退し、1582年に滅亡します。「三段撃ち」を断定的に書かない出題が近年の傾向です。


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