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下剋上とは?意味と戦国時代に広がった理由をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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下剋上(げこくじょう)とは、地位が下の者が上の者に打ち勝ち、実権を奪うことです。家臣が主君を倒し、守護代が守護に取って代わる。戦国時代の社会の空気を、一語で言い表す言葉として使われます。この記事では、下剋上の意味と由来、そしてなぜこの風潮が戦国時代に広がったのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる下剋上」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・この言葉は、どこで生まれたのか

・なぜ戦国時代に広がったのか

・「下克上」という書き方は間違いなのか


1分でわかる下剋上


下剋上とは、一言でいえば、身分ではなく実力が人の立場を決めるようになった、そんな時代の空気です。

意味は「下の者が上に打ち勝つ」

地位が下の者が、上の者に打ち勝って実権を奪うこと。家臣が主君を倒し、守護代が守護に取って代わる。上下の秩序が逆転する動きをまとめて指す言葉です。

転機は応仁の乱

1467年に始まった応仁の乱はおよそ11年続き、幕府の力を大きく弱めました。任命する側の権威が揺らげば、あとは実力がものを言います。下剋上は、この戦乱ののち各地で相次ぐようになりました。

実力で領国を支配する大名が現れた

美濃の斎藤道三は主君の土岐氏を追放し、陶晴賢は主君の大内義隆を倒しました。守護に任命されたわけでもないのに領国を握る。戦国大名は、こうして各地に生まれていきます。


下剋上は、特定の事件の名前ではありません。その時代の全体をおおっていた空気感を表します。だから、戦国という時代を一語で説明したいときに、この言葉が選ばれます。

おまけトリビア

「下剋上」の「剋」は、打ち勝つという意味の字。この言葉のもとは、古代中国の書物『五行大義(ごぎょうたいぎ)』などに見える「下、上に剋つ」という言い回しです。戦国日本を代表する一語は、実は日本生まれではないんです。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、下剋上をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■下剋上の背景


室町幕府の支配は、各地に置かれた守護に支えられていました。守護は幕府から任命された地方の支配者ですが、京にとどまることも多く、任国の政務は家臣である守護代が代行します。代行が長く続けばどうなるか。実務も、現地の人脈も、動かせる兵も、少しずつ守護代の側に集まっていきます。

そこへ応仁の乱が起こりました。1467年から11年におよぶ戦乱で幕府の力は大きく弱まり、「任命する側」の権威そのものが揺らぎます。任命されたから偉い、という理屈が通らなくなれば、残るのは実力です。守護代や、現地に根を張った武士である国人(こくじん)たちが、主家を押しのけて領国を握っていきました。

■実例の広がり


下剋上と呼ばれる出来事は、戦国時代を通じて各地で起こりました。

年出来事
1467年応仁の乱が始まる(〜1477年)
1540年代〜1552年(諸説)斎藤道三が主君の土岐氏を追放し、美濃を握る
1551年陶晴賢が主君の大内義隆を倒す
1555年織田信長が同族の織田信友を討つ
1582年明智光秀が本能寺の変で織田信長を討つ


京でも、細川政元が将軍を退けて幕府の実権を握るという事態が起きています。地方だけの現象ではありませんでした。

並べてみると、倒し方も立場もばらばらです。家臣が主君を倒した例、一族のなかで争った例、幕府の中枢で起きた例。共通しているのは、上に立つ者が「上だから」という理由だけでは立場を保てなくなっていたことです。下剋上という一語がこれほど広く使われたのは、個々の事件を超えて、その状態そのものを指した言葉だからでした。

上の表のなかで、織田信長は二度登場します。1555年には同族を討って勢力を伸ばした側として、そして1582年には家臣の明智光秀に討たれた側として。倒す側と倒される側が入れ替わり続ける。それが下剋上の時代の姿でした。

■史実と学説


下剋上という言葉そのものは、戦国時代に作られたものではありません。もとは古代中国の『五行大義』などに見える「下、上に剋つ」という言い回しで、万物が互いに打ち勝つ関係を説く「相剋」の思想から来ています。日本で歴史用語として使われはじめた時期は、鎌倉時代から南北朝時代のころとされます。

この言葉が実際に使われている例が、南北朝時代の初めに残っています。建武元年(1334年)8月、京都の二条河原に掲げられたとされる風刺文『二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)』です。後醍醐天皇の建武の新政を笑い、都に流行するものを次々に並べ立てたその一句に、「下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの)」とあります。応仁の乱のおよそ130年前。戦国の世を待たずに、この語はすでに世の乱れを言い表す言葉として使われていました(くわしくは二条河原落書の記事へ)。

どの時期が下剋上の盛りだったのかは、資料によって幅があります。南北朝時代からとするもの、鎌倉時代の末期からとするもの。ただし、応仁の乱ののちに頻発した、という点はおおむね一致しています。1467年を戦国時代の始まりとする見方が広く採られるのも、この転換の大きさゆえです。

「下剋上」は「下克上」とも書かれ、どちらも同じ意味で使われます。歴史用語としては「下剋上」の表記が多く、この記事もそれに揃えました。先に引いた『二条河原落書』の原文は「下克上」の表記です。ほかにもいくつかの書き方が記録されており、表記が一つに定まらないまま広く使われてきた言葉です。「下克上」が間違いというわけではありません。


■トリビアの真相


「剋」という字は、日常ではまず使われませんでした。意味は「打ち勝つ」。もとになった『五行大義』は、万物を五つの要素で説明する五行思想を集大成した書物で、そのなかの「相剋」、つまり互いに打ち勝つ関係を説く部分から、「下、上に剋つ」という言い回しが独立していきました。もともとは、自然のしくみを語るための言葉だったわけです。

それが日本では、社会のありさまを指す言葉になりました。家臣が主君に剋つ。守護代が守護に剋つ。順序が逆転するという現象を、遠い異国の思想から借りた一語で言い当てたのです。言葉は輸入品。けれど指し示した中身は、まぎれもなく戦国日本のものでした。

試験に出るポイント

「応仁の乱(1467年)→下剋上の風潮→戦国大名の登場」の流れで問われます。守護代や国人が主家を倒して大名になった点、守護大名との違い(幕府に任命されたかどうか)とセットで押さえましょう。表記は「下剋上」。


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