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改新の詔とは?四か条の内容と公地公民をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】 |
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著作名:
かわちゃん
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改新の詔(かいしんのみことのり)とは、646年(大化2年)の正月に出された、新しい国づくりの基本方針を示す四か条の詔です。大化の改新と呼ばれる一連の改革の中心に置かれます。このテキストでは、四か条それぞれの内容と「公地公民」の意味、そして条文に後の時代の言葉が混じっているという指摘までを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
改新の詔とは、一言でいえば、土地と人を国のものにすると宣言した四か条の方針です。
四か条を並べると、律令国家の骨格がほぼそろっています。だからこそ「646年の時点で、ここまで整った文章があり得たのか」が問われてきました。ただし条文への疑いは、この時期に改革が進んだこと自体を否定するものではありません。
ここまでが1分の要約です。ここからは、改新の詔をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
645年、蘇我入鹿らが討たれた乙巳の変(いっしのへん)が起こり、政治の主導権が動きます。都は飛鳥から難波へ移され、翌646年の正月、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)で発せられたと伝えられるのが、この詔です。
目指したのは、中国にならった中央集権の国家でした。土地と人民を豪族がそれぞれ抱えている状態では、国として税も兵も動かせません。改新の詔は、その所有のかたちを根本から組み替えると宣言した文書だと理解されています。土地を手放す豪族には、代わりに食封(じきふ)などが与えられました。
第一条が理念、第二条以下が具体的な仕組みという並びです。特に第三条は、人を帳簿で把握してから田を配るという順序になっていて、税を取るための土台がここで宣言されています。
この詔をめぐる最大の論点が、条文がどこまで当時のままかという問題です。焦点になったのが第二条の「郡司」という文字です。地方の単位を表す「郡」の字は、701年の大宝律令以降のもので、646年の時点では「評」が使われていたはずでした。この一字をめぐる長い議論は、地中から出土した木簡に「評」と記されていたことで決着します。詔の条文には、後の時代の用語による書き替えが入っている、現在はそう理解されています。
では詔そのものが作り話なのかというと、そこまでは言えません。条文への論争があるものの、この時期に改革が進んだこと自体は認める、というのが現在の主流の見方です。
さらに近年は、公地公民という捉え方そのものが論点になっています。土地と人民の私有を認めないことが律令制の原則であり、大宝律令の施行によってその体制が確立した、長く語られてきたのは、この説明です。一方で、公地公民は近代の歴史学が組み立てた用語であって、当時の法の条文とは必ずしも重ならない、という指摘も出ています。
根拠として挙げられるのが、言葉と実態のずれです。まず「公民」という語は、律令の条文そのものには使われていません。さらに、人々に配られた口分田(くぶんでん)も、律令の上では公の田ではなく私の田として扱われていました。口分田が「公の田」と受け止められるようになるのは、開墾地の私有を認めた8世紀半ばの墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)より後だとされます。ここから、公地公民という枠組みが当時そのまま存在していたのかを問い直す見方が生まれ、律令制の根幹を公地公民に置く従来の説明は見直されつつある、といわれます。
ただし、これで決着がついたわけではありません。公地公民を律令制の基本原則として説明する記述はいまも標準的で、資料によって扱いが分かれている——というのが、この論点の現在地です。
第三条は戸籍と計帳の作成を掲げましたが、全国的な戸籍としてはっきり確認できる最初のものは、24年後の庚午年籍(670年)です。班田収授が本格的に回り出すのも、律令が整ってからでした。
宣言と実行のあいだにこれだけの時間があること自体が、改新の詔の性格をよく表しています。これは完成した制度の報告ではなく、これから作る国のかたちを先に言い切った文書でした。だからこそ、後の世代が律令の言葉で条文を整えたくなったのだ、とも考えられています。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる改新の詔」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。
・四か条は、結局なにを変えようとしたのか
・条文の「郡司」という二文字が、なぜ問題になったのか
・宣言されたことは、いつ本当に実行されたのか
さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。
・四か条は、結局なにを変えようとしたのか
・条文の「郡司」という二文字が、なぜ問題になったのか
・宣言されたことは、いつ本当に実行されたのか
1分でわかる改新の詔
改新の詔とは、一言でいえば、土地と人を国のものにすると宣言した四か条の方針です。
第一条は「公地公民」の宣言
天皇家の直轄地である屯倉(みやけ)も、豪族が持つ土地(田荘・たどころ)と私有民(部曲・かきべ)も、すべて廃止する。土地と人民は国のものとする、これが公地公民と呼ばれる考え方です。
天皇家の直轄地である屯倉(みやけ)も、豪族が持つ土地(田荘・たどころ)と私有民(部曲・かきべ)も、すべて廃止する。土地と人民は国のものとする、これが公地公民と呼ばれる考え方です。
残り三か条は、国の骨組み
第二条は都と地方の行政区画、第三条は戸籍・計帳(けいちょう)をつくって田を配る班田収授(はんでんしゅうじゅ)、第四条は新しい税の仕組み。国家の設計をまとめて打ち出しています。
第二条は都と地方の行政区画、第三条は戸籍・計帳(けいちょう)をつくって田を配る班田収授(はんでんしゅうじゅ)、第四条は新しい税の仕組み。国家の設計をまとめて打ち出しています。
ただし、条文は後から手が入っている
第二条の原文には、地方の役人を指す「郡司」という語があります。「郡」は50年以上あとの律令で使われる字で、当時は「評(こおり)」でした。条文が後に書き替えられた証拠とされています。
第二条の原文には、地方の役人を指す「郡司」という語があります。「郡」は50年以上あとの律令で使われる字で、当時は「評(こおり)」でした。条文が後に書き替えられた証拠とされています。
四か条を並べると、律令国家の骨格がほぼそろっています。だからこそ「646年の時点で、ここまで整った文章があり得たのか」が問われてきました。ただし条文への疑いは、この時期に改革が進んだこと自体を否定するものではありません。
おまけトリビア
第三条が掲げた戸籍づくりが全国規模で実現したのは、24年後の庚午年籍(こうごねんじゃく・670年)でした。宣言と実行のあいだには、それだけの距離があったんです。
第三条が掲げた戸籍づくりが全国規模で実現したのは、24年後の庚午年籍(こうごねんじゃく・670年)でした。宣言と実行のあいだには、それだけの距離があったんです。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、改新の詔をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■改新の詔の背景
645年、蘇我入鹿らが討たれた乙巳の変(いっしのへん)が起こり、政治の主導権が動きます。都は飛鳥から難波へ移され、翌646年の正月、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)で発せられたと伝えられるのが、この詔です。
目指したのは、中国にならった中央集権の国家でした。土地と人民を豪族がそれぞれ抱えている状態では、国として税も兵も動かせません。改新の詔は、その所有のかたちを根本から組み替えると宣言した文書だと理解されています。土地を手放す豪族には、代わりに食封(じきふ)などが与えられました。
■四か条の中身
| 条 | 内容の要旨 |
| 第一条 | 屯倉・田荘・部曲など、私有地と私有民を廃止する |
| 第二条 | 都を定め、畿内・国司・郡司・関所・防人・駅馬などを置く |
| 第三条 | 戸籍・計帳をつくり、班田収授の法を定める |
| 第四条 | 旧来の税を改め、新しい調(税)を課す |
第一条が理念、第二条以下が具体的な仕組みという並びです。特に第三条は、人を帳簿で把握してから田を配るという順序になっていて、税を取るための土台がここで宣言されています。
■史実と学説
この詔をめぐる最大の論点が、条文がどこまで当時のままかという問題です。焦点になったのが第二条の「郡司」という文字です。地方の単位を表す「郡」の字は、701年の大宝律令以降のもので、646年の時点では「評」が使われていたはずでした。この一字をめぐる長い議論は、地中から出土した木簡に「評」と記されていたことで決着します。詔の条文には、後の時代の用語による書き替えが入っている、現在はそう理解されています。
では詔そのものが作り話なのかというと、そこまでは言えません。条文への論争があるものの、この時期に改革が進んだこと自体は認める、というのが現在の主流の見方です。
公地公民についても、646年に一度で実現したわけではありません。豪族の私有はその後も残り、実際に浸透するまでには長い時間がかかったとされます。実施の程度や時期には、いまも見方の幅があります。
さらに近年は、公地公民という捉え方そのものが論点になっています。土地と人民の私有を認めないことが律令制の原則であり、大宝律令の施行によってその体制が確立した、長く語られてきたのは、この説明です。一方で、公地公民は近代の歴史学が組み立てた用語であって、当時の法の条文とは必ずしも重ならない、という指摘も出ています。
根拠として挙げられるのが、言葉と実態のずれです。まず「公民」という語は、律令の条文そのものには使われていません。さらに、人々に配られた口分田(くぶんでん)も、律令の上では公の田ではなく私の田として扱われていました。口分田が「公の田」と受け止められるようになるのは、開墾地の私有を認めた8世紀半ばの墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)より後だとされます。ここから、公地公民という枠組みが当時そのまま存在していたのかを問い直す見方が生まれ、律令制の根幹を公地公民に置く従来の説明は見直されつつある、といわれます。
ただし、これで決着がついたわけではありません。公地公民を律令制の基本原則として説明する記述はいまも標準的で、資料によって扱いが分かれている——というのが、この論点の現在地です。
■トリビアの真相
第三条は戸籍と計帳の作成を掲げましたが、全国的な戸籍としてはっきり確認できる最初のものは、24年後の庚午年籍(670年)です。班田収授が本格的に回り出すのも、律令が整ってからでした。
宣言と実行のあいだにこれだけの時間があること自体が、改新の詔の性格をよく表しています。これは完成した制度の報告ではなく、これから作る国のかたちを先に言い切った文書でした。だからこそ、後の世代が律令の言葉で条文を整えたくなったのだ、とも考えられています。
試験に出るポイント
646年(大化2年)発布・第一条=公地公民(屯倉・田荘・部曲の廃止)・第三条=戸籍・計帳・班田収授、の3点が最頻出です。645年の乙巳の変(事件)と、646年からの大化の改新(改革)を分けて覚えること、「郡」と「評」の違いから条文に後世の手が入ったとされる点も狙われます。
646年(大化2年)発布・第一条=公地公民(屯倉・田荘・部曲の廃止)・第三条=戸籍・計帳・班田収授、の3点が最頻出です。645年の乙巳の変(事件)と、646年からの大化の改新(改革)を分けて覚えること、「郡」と「評」の違いから条文に後世の手が入ったとされる点も狙われます。
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