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【身分制度改革、地租改正、富国強兵策、殖産興業政策】 受験日本史まとめ 54
著作名: Cogito
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富国強兵策

明治政府の近代化政策の中心は、欧米列強と比類する強国にするための富国強兵策でした。欧米諸国の政治制度・経済制度・技術・設備・機械などを導入する殖産興業が第一の政策となりました。まず資本主義の導入にあたり、金融・貨幣制度改革が行われました。明治政府成立当初は、一般鋳貨・藩札・外国紙幣・不換紙幣の太政官札や民部省札など、さまざまなお金が国内に反乱し、混乱していました。これらの整理のため、1871年(明治4年)、伊藤博文の建議により新貨条例が公布され、造幣寮(のちの造幣局)で金・銀・銅の新貨幣を鋳造し、金本位制を定め、円・銭・厘の十進法の通貨制度が成立しました。新通貨制度は建前上金本位制だったものの、諸外国との貿易では主に銀が使われていたため、実際が金銀複本位制でした。1872年(明治11年)には、太政官札などの不換紙幣と引き換えるため、新しい政府紙幣を発行しましたが、これも不換紙幣でした。

1869年(明治2年)に半官半民の通商会社や為替会社が設立されたものの成功しなかったため、伊藤博文や渋沢栄一(1840~1931)ら中心となり、アメリカのnational bank制度にならい、1872年(明治5年)に国立銀行条例を発布し、翌年から三井・小野組出資の第一国立銀行を筆頭に各地に民間の国立銀行が多数設立されました。この国立銀行という名称は、国の法律に基いて設立・運営されるもので、national bankを日本語訳したものでした。そのため、実際は私営の民間銀行のことを国立銀行とよび、政府の不換紙幣の整理を目的に設立されました。これら銀行は資本金の60%まで紙幣を発行することが認められ、残り40%は正貨を準備し、兌換紙幣の交換にあてなければなりませんでした。この条件が民間銀行には厳しく、多くの銀行が営業不振に陥ったため、政府は1876年(明治9年)に条例を改正し、正貨兌換を廃止し、資本金の80%まで紙幣を発行できるようにしました。こうして条件が緩和された結果、1879年(明治12年)には全国に153もの銀行が設立され、不換紙幣の乱発はインフレを招くと同時に、産業資金の創出に大きな効果がありました。

通信・交通制度も整備されていきました。1869年(明治2年)、明治政府は東京と横浜の間に電信を敷設し、1874年(明治7年)には、青森・東京・長崎間が完成し、1880年代初頭までに、全国の電信ネットワークが完成しました。海外電信も、1871年(明治4年)長崎と中国の上海との間に開通しました。電話は、1877年(明治10年)に輸入され、1890年(明治23年)から、官営の電話事業が開始されました。飛脚制度に代わり、前島密(1835~1919)の主導により郵便制度も始まり、1871年(明治4年)に東京・京都・大阪間で実施され、1873年(明治6年)には全国均一料金が定まり、主要な全国郵便網が完成し、1877年(明治10年)には万国郵便連合に加入しました。

交通では、イギリスから外国債と技術を借り、官営事業として鉄道の敷設がはじまりました。1872年(明治5年)に東京の新橋・神奈川の横浜間で鉄道が開通し、その後1874年(明治7年)に大阪・神戸間、1877年(明治10年)に大阪・京都間、1889年(明治22年)に東海道本線の全線が開通しました。




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