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【幕政の安定、元禄時代、徳川綱吉の政策、新井白石の政策】 受験日本史まとめ 41
著作名: Cogito
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元禄時代

徳川幕府が安定していく中、1680年(延宝8年)に第5代将軍の徳川綱吉が将軍職を継ぎました。徳川綱吉は将軍になった後、前代の大老酒井忠清を排し、将軍擁立に貢献した堀田正俊を大老に据え、農政を重視し、幕僚の農民の健全な管理を代官に強く命じ、これに従わない者を厳しく処分しました。1683年(天和3年)、新たに代がわりの武家諸法度が発布され、武道を意味する弓馬の道から、儒教の思想に基づく忠孝や礼儀へと代わりました。儒学に傾倒した徳川綱吉は、湯島聖堂を建立し、林信篤を大学頭に任じました。

この時期幕府は、将軍の権威を高めるため、朝廷・天皇の権威を利用しました。徳川家康以来の統制のなかで、少しずつ朝廷の儀礼を復活させ、前代の伊勢例幣使や石清水八幡宮放生会の復活や1687年(貞享4年)に221年ぶりの大嘗祭が、1694年(元禄7年)には192年ぶりに賀茂葵祭が再興されました。大嘗祭は天皇即位の際に行われる儀式で、1466年(文正元年)の後土御門天皇が挙行したのを最後に、応仁の乱や戦国時代などの時代背景で9代の天皇が行なえませんでした。大嘗祭は霊元上皇(在位1663~87)の働きかけと幕府の判断で、東山天皇(在位1687~1709)即位時に復活しました。また、幕府はこれ以外にも山陵修理や禁裏御料の増献を行い、武家伝奏なども朝廷の人選を重要視し幕府の内意を得て決めるようになりました。

徳川綱吉の時代に起こった重要な事件が松の廊下刃傷事件です。1701年(元禄14年)3月14日、勅使・院使を迎える直前に、赤穂城主の浅野内匠頭長矩が高家の吉良上野介義央に小刀を振るい傷を負わせました。天皇や勅使儀礼を重要視するようになった時代背景で、江戸城内で起こったこの事件に将軍綱吉は怒り、浅野内匠頭長矩は即日切腹に、浅野家はお家断絶となりました。この翌年1702年に、浅野家の家臣が吉良上野介義央邸に押し入り仇を打ちました。これが有名な忠臣蔵の事件です。

平和な世の中で、旧来の牢人のなかにはかぶき者として秩序を乱すものも多く現れました。幕府は1683年(天和3年)にかぶき者の検挙を開始し、1686年(貞享3年)にかぶき者の集団の大小神祇組を逮捕し、首班11人は打ち首になりました。

綱吉時代の1687年(貞享4年)に出された生類憐れみの令は、犬や動物以外にも、捨て子・捨て病人の禁制や行き倒れ人の保護など弱者救済の側面もありました。しかし、多くの人びとにとって行き過ぎた動物愛護は大きな負担でした。同時期に、服忌令が出され、近親者が亡くなったときの忌引の日数が決められました。徳川綱吉は、生類憐れみの令と服忌令を同時に徹底し、戦国の世の人を殺すことの価値や主人の死後の後追い切腹、無頼行為を行うかぶき者などを否定しました。一方でこのような意図から、人々の死を忌み嫌う風潮が生まれ、皮多・長吏や非人など穢れを仕事とした人々への差別も強化されてしまいました。

徳川綱吉は儒教を尊重する以外にも、仏教・神道・陰陽道を支持し、壮大な護国寺・護持院を建立し、東大寺大仏殿の再建、法隆寺諸堂の修復、寛永寺本坊の再建を行いました。また、伊勢神宮・熱田社の神社造営、湯島聖堂の建立も行いました。

しかし、この頃には鉱山収入も減少し、金銀産出量の低下により、幕府財政も不安定になっていき、また明暦の大火による江戸再建や、各地の寺社造営費用がかさみ、幕府財政は破綻していきました。

勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀は、財政再建のために貨幣改鋳を進言し、老中柳沢吉保を経て、将軍綱吉の耳に届きました。これ以降幕府は、慶長小判(金含有量84%)に代わり、元禄小判(金含有量57%)を鋳造し発行しました。小判の増量により幕府は500万両の税収を得ましたが、貨幣価値は下落し、代わりに物価が上昇し、人々の生活は苦しくなっていきました。

さらに1707年(宝永4年)には富士山が大噴火し、武蔵・駿河・相模国では火山灰が降り積もり、遠く上総・下総・安房まで届きました。この大災害による関東復興のため、幕府は全国に諸国高役金をかけ、100石につき金2両の復興金を納めさせました。




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