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【平城京の時代、聖武天皇の治世、三世一身法、墾田永年私財法】 受験日本史まとめ 13
著作名: Cogito
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新たな土地政策

律令政治が発展した8世紀には、鉄製農具の普及や農業の進歩が見られました。また、それまでの竪穴住居に代わり、掘立柱住居が普及していき、家族形態も妻問婚にはじまり女性は結婚しても氏姓を改めず、自分自身の財産を持っていました。

農民は、国家から与えられた口分田の耕作や口分田以外の公の田(乗田)や寺社・貴族の土地を借りて耕作しました。これを賃租といい、原則1年間土地を借り受け、収穫の5分の1を地子として納めました。

農民には土地の耕作以外に、兵役・雑徭・調や庸などの租税・運脚など厳しい負担がかけられていました。加えて天候不順や虫害などにより容易に飢饉がおこり、生活は非常に苦しいものでした。

こうした中、一部の農民は生産に成功し富裕者となり、それ以外の貧困者に分かれるようになっていきます。

人口増加に伴い口分田が不足すると、政府は耕地拡大を図り、722年(養老6年)に百万町歩の開墾計画を立て、翌年723年(養老7年)には三世一身法(さんぜいっしんのほう)が出されます。三世一身法は、新たに灌漑施設を設けて未開の地を開墾した場合、三世(子・孫・曾孫)にわたりその私有を認め、旧来の灌漑施設を利用し開墾した場合本人一代の私有を認めるもので、民間の開墾による耕地拡大を目指したものでした。

しかし、三世一身法では、開墾地の返還期限が近づくと耕地が再び荒廃することから、743年(天平15年)には墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)が出されます。この法により、開墾した田の私有が永代にわたり保障され、墾田の面積は一品の親王や一位の貴族で500町、二品の親王や二位の貴族で400町から初位以下庶民の10町に至るまで身分による階層的な制限がかけられていました。

墾田永年私財法により、政府は開墾地の拡大と支配を強め、浮浪浪人などの労働力を編成して灌漑施設を作り、貴族、大寺院、地方豪族などが中心となり開発が進みました。東大寺などの大寺院は、国司や郡司の協力を得て大規模な開墾を行いました。これを初期農園といい、土地開墾の大きな原動力となりました。




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