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源義経とは?生涯と兄・頼朝に追われた理由をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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源義経(みなもとのよしつね)とは、平安時代末期の武将で、兄・源頼朝のもとで平氏(※)を滅ぼしながら、その兄に追われて奥州で最期を迎えた人物です(1159〜1189年)。壇ノ浦で源平の戦いを終わらせた最大の功労者が、なぜ数年後には追われる身になったのか。この記事では、源義経の生涯と頼朝との決裂の理由を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

(※)壇ノ浦の戦いを経て滅んだのは平清盛の一門(平家)です。平(たいら)の姓を持つ一族がすべて絶えたわけではありません。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる源義経」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・義経は何を成し遂げたのか

・兄・頼朝との決裂は何が引き金だったのか

・弁慶や鵯越の名場面は、どこまでが史実か


1分でわかる源義経


源義経とは、一言でいえば、平氏を滅ぼしながら、その功績のあとで兄に追われた武将です。

鞍馬寺から奥州へ、そして兄のもとへ

義経は源義朝の子として生まれ、幼名を牛若丸といいました。平治の乱で父を失い、京都の鞍馬寺に預けられます。成長すると奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せ、1180年、兄・頼朝の挙兵を聞いて平泉を発ちました。

一ノ谷・屋島・壇ノ浦で平氏を滅ぼす

源氏の軍を率いた義経は、1184年の一ノ谷、1185年の屋島と平氏を追い詰め、同じ1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼします。源平の戦いに決着をつけた立役者でした。

無断の任官から決裂、そして衣川へ

ところが義経は、兄の許しを得ないまま後白河法皇から官職を受け取ります。この任官が兄の怒りを買い、義経は一転して追われる立場になりました。再び奥州へ逃れたものの、秀衡の死後にその子・泰衡に攻められ、1189年、衣川の館で自害します。


平氏を滅ぼしてから、わずか4年。頂点と最期が、これほど近い武将もそういません。

おまけトリビア

義経の最期には多くの人が同情し、弱い側に肩入れすることを「判官贔屓(ほうがんびいき)」と呼ぶようになりました。義経が名乗った「九郎判官」の判官が語源です。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、源義経をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■源義経の生涯


年出来事
1159年源義朝の子として生まれる。幼名は牛若丸
1159年平治の乱で父・義朝が敗死。のちに鞍馬寺へ預けられる
成長後奥州平泉へ下り、藤原秀衡の庇護を受ける
1180年兄・頼朝の挙兵に応じ、平泉を発って合流
1184年源義仲(木曽義仲)を破って入京。2月、一ノ谷の戦い
1185年2月、屋島の戦い。3月、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡
1185年頼朝と決裂し、追討される立場になる
1189年奥州で藤原泰衡に襲われ、衣川の館で自害


平治の乱で父を失ったとき、義経はまだ幼児でした。母・常盤御前(ときわごぜん)に抱かれて難を逃れ、やがて鞍馬寺に預けられます。武士の家の子でありながら、少年期を寺で過ごしたことになります。

その義経が歴史の表舞台に出るのは、奥州から兄のもとへ駆けつけた1180年から。以後わずか5年で平氏を滅ぼすところまで駆け上がり、その4年後には自ら命を絶ちました。表舞台に立っていた期間は、およそ10年しかありません。

■なぜ兄・頼朝と決裂したのか


決裂の引き金として繰り返し挙げられるのが、頼朝の推挙を経ずに後白河法皇から官職を受けたことです。義経が任じられたのは、検非違使(けびいし)や左衛門少尉といった京の官職です。頼朝は、御家人への恩賞を自分の手で差配することにこだわっていました。弟が朝廷から直接もらってしまえば、その序列が崩れます。

理由はこれ一つに絞れるわけでもありません。資料によっては、梶原景時(かじわらのかげとき)ら関東の武士との折り合いの悪さや、義経が京に留まって後白河法皇に近づいたことも挙げています。どれを重く見るかは、資料によって少しずつ違います。

頼朝との不和の原因は、資料により書きぶりに幅があります。任官問題を主因とするもの、朝廷への接近や関東武士との対立を並べるものがあり、一つに確定してはいません。また、義経が鎌倉に入れず腰越で兄への弁明を書いたとされる「腰越状」は、後世の作とみる見方が有力です。


追われる身になった義経は、最後に再び奥州平泉を頼ります。しかし庇護者だった藤原秀衡が世を去ると、跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈しました。1189年、衣川の館を襲われた義経は、戦わずに持仏堂にこもり、妻子とともに自害します。かつて自分をかくまってくれた土地で、その家の跡取りに討たれたことになります。

なお頼朝は、義経を追討するという名目で、1185年に全国へ守護・地頭を置くことを朝廷に認めさせました。弟を追う過程が、そのまま武家政権の土台づくりになっていったわけです。

■伝説と史実の距離


義経ほど、物語に彩られた武将もいません。鞍馬山で天狗に剣術を習った話、五条大橋で武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)を打ち負かして家来にした話は、どれも有名です。しかしこれらは、義経の死から200年ほど後に成立したとされる『義経記(ぎけいき)』や御伽草子などの物語が広めたもので、同時代の記録にさかのぼれるものではありません。

一ノ谷の戦いの「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」も、断崖を馬で駆け下りた場面として語り継がれてきましたが、進軍路については異説があり、細部まで史実として確定しているわけではありません。物語として親しむのと、史実として扱うのは、分けて考えたいところです。

■トリビアの真相


義経は、任じられた官職にちなんで「九郎判官」(くろうほうがん)と呼ばれました。「判官贔屓」の判官は、ここから来ています。平氏を滅ぼした最大の功労者が、兄に追われて非業の死を遂げる。この落差が人々の同情を集め、弱い側・敗れた側に肩入れする心情を指す言葉として定着しました。

言い換えれば、判官贔屓という言葉そのものが、義経がどれほど愛された人物かの証拠でもあります。義経の逸話がこれほど増えたのも、同じ理由でしょう。

試験に出るポイント

「源頼朝の異母弟・壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす・奥州平泉で自害」が基本セット。一ノ谷(1184年)→屋島→壇ノ浦(1185年)の順番と、頼朝との決裂の理由が「頼朝の許しを得ない任官」であることを押さえましょう。義経を庇護した藤原秀衡と、義経を襲った藤原泰衡の取り違えにも注意です。


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