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狩野永徳とは?作品と「失われた代表作」までわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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狩野永徳(かのうえいとく)とは、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人に仕えた、安土桃山時代の絵師です(1543〜1590年)。金地に巨大なモチーフを描く豪壮な障壁画で桃山文化を代表しますが、その代表作の多くは、いま見ることができません。この記事では、永徳の生涯と作品、そして代表作が残っていない理由を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる狩野永徳」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・なぜ天下人は永徳を選んだのか

・代表作はどこへ消えたのか

・永徳の死因は何だったのか


1分でわかる狩野永徳


狩野永徳とは、一言でいえば、天下人の権力を絵の大きさで見せた絵師です。

狩野派の家に生まれ、祖父に絵を学ぶ

永徳は京都の絵師の家に生まれ、祖父の元信(もとのぶ)から絵を学びました。父の松栄(しょうえい)と共に大徳寺聚光院(だいとくじじゅこういん)の障壁画を手がけ、頭角をあらわします。

信長・秀吉に仕え、城を絵で埋めた

織田信長に認められた永徳は、安土城の障壁画づくりを率いました。信長の死後は豊臣秀吉に登用され、大坂城や聚楽第(じゅらくだい)の障壁画も手がけます。

代表作の多くは建物とともに失われた

安土城も大坂城も聚楽第も、いまはもう残っていません。壁やふすまに描かれた障壁画は建物と運命をともにするため、永徳の最大の仕事は現物が残っていないのです。


いま残る国宝「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」は、高さおよそ2メートル20センチ、幅4メートル50センチ。金地を背に獅子が堂々と歩くこの画面の大きさこそ、永徳が天下人に求められたものでした。

おまけトリビア

京都の町を描いた国宝「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」の上杉本は、狩野永徳の作品とされています。織田信長が上杉謙信(うえすぎけんしん)に贈ったものと伝えられています。絵が外交の贈り物になった時代でした。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、狩野永徳をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■狩野永徳の生涯


年出来事
1543年京都に生まれる。祖父は狩野元信、父は狩野松栄
―父・松栄と共に大徳寺聚光院の障壁画を描く
1576年〜織田信長に登用され、安土城の障壁画にあたる
信長の死後豊臣秀吉のもと、大坂城・聚楽第の障壁画を手がける
1590年死去


永徳の名は「州信(くにのぶ)」、初めの名は「源四郎(げんしろう)」で、永徳は号です。狩野派は室町時代から続く絵師の一族で、永徳はその棟梁として、工房をまとめて巨大な仕事をこなしました。城ひとつぶんの障壁画を数年で仕上げるには、一人の腕だけでは足りません。永徳が率いた集団制作の体制が、狩野派がのちに画壇の中心でありつづける土台になりました。

■なぜ天下人は永徳を選んだのか


答えは、絵の大きさにあります。永徳が得意としたのは、大画面いっぱいに巨大なモチーフを配置し、金と極彩色で仕上げる様式でした。城に入った者が最初に目にするのは、天守や広間を埋める絵です。そこに人の背丈をこえる獅子が金地の上を歩いていれば、言葉で説明しなくても、この城の主が何者かは伝わります。

現存する「唐獅子図屏風」は、高さ224センチ、幅453センチ。屏風としては破格の大きさです。永徳の絵は鑑賞のための絵であると同時に、権力を見せるための装置でした。天下人が競って永徳を求めたのは、その機能を誰よりもうまく果たせたからです。

なお、いま一双として伝わる「唐獅子図屏風」のうち、永徳の作とされるのは右隻です。左隻は、後の時代に狩野常信(かのうつねのぶ)が右隻の図柄に合わせて描いたもので、この二つがそろって現在の姿になりました。獅子の絵として広く知られている図は、右隻のほうです。

■代表作はどこへ消えたのか


永徳の最大の仕事は、安土城・大坂城・聚楽第の障壁画でした。ところが、この3つの建物はいずれも現存しません。障壁画は壁・ふすま・天井に直接描かれるため、建物が失われれば絵も失われます。永徳の代表的な事績の多くが建物とともに滅びてしまったのは、そのためです。

いま国宝として残るのは、聚光院の障壁画、上杉本「洛中洛外図屏風」、「唐獅子図屏風」、「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」など、屏風やふすまとして動かせた作品が中心です。皮肉なことに、権力の中枢を飾った絵ほど残らず、持ち出せたものが生き延びました。

■史実と学説


永徳の作品は、どこまでが本人の筆かをめぐって見方が分かれます。狩野派は棟梁のもとで工房が集団制作する集団だったため、「永徳作」と「永徳工房作」の線引きが簡単ではないのです。永徳作として名高い作品のなかにも、帰属に議論があるとされるものがあります。

死因についても、確定はしていません。仕事の最中に倒れて没したことは伝わっていますが、そのとき手がけていた仕事が何だったかは、資料によって食い違います。現代でいう過労死ではないかともいわれていますが、これはあくまで後世からの見立てです。

永徳の享年は48(満47歳)と記す資料が多い一方、47歳とする資料もあります。生年を1547年とする資料もありますが、1543年生まれとする資料が多数です。「檜図屏風」は国宝に指定されていますが、永徳筆かどうかは議論があるとする資料もあります。聚光院の障壁画の制作年は、1566年(永徳24歳)とする資料と、より後の年とする説を紹介する資料があります。大坂城・聚楽第の障壁画の制作年も、資料によって1〜2年ずれます。


■トリビアの真相


上杉本「洛中洛外図屏風」は、1574年に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる作品です。京都の町なみと、そこで暮らす人々が細かく描き込まれています。城を埋める巨大な絵の一方で、こうした緻密な描写もこなしたのが永徳でした。豪快な「大画」だけでなく、細部を緻密に描く「細画」も得意としたと伝えられています。

試験に出るポイント

「安土桃山時代・狩野永徳・唐獅子図屏風・洛中洛外図屏風」がセットで問われます。永徳が信長と秀吉の両方に仕えた点、ふすまや壁に描かれた絵を障壁画と呼ぶ点も押さえましょう。絵画の問題は作品名だけを覚えるより、図版とセットで見ておくのが近道です。


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