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乙巳の変とは?645年のクーデターと大化の改新の違いをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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乙巳の変(いっしのへん)とは、645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、蘇我氏本宗家を滅ぼしたクーデターです。この記事では、事件の背景から当日の経過、そして「大化の改新」との違いまでを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる乙巳の変」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・645年は「大化の改新」ではない。ではどこからが大化の改新か

・なぜ蘇我入鹿は狙われたのか

・クーデターの日に燃えた、日本最古級の歴史書


1分でわかる乙巳の変


乙巳の変とは、一言でいえば、蘇我氏の権力を二日で終わらせた宮中クーデターです。

645年6月12日、宮中での暗殺
三韓からの使者を迎える儀式の最中、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿が討たれました。指揮したのは中大兄皇子。中臣鎌足とともに計画を練り、当日は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が上表文を読み上げる場面が合図となりました。皇極天皇(こうぎょくてんのう)の御前での出来事です。

翌日、蘇我氏本宗家が滅亡

翌13日、入鹿の父・蘇我蝦夷(そがのえみし)は甘樫丘(あまかしのおか)の邸宅に火を放って自害します。馬子から三代続いた蘇我氏本宗家は、二日で消えました。


645年は「大化の改新」ではない

事件の名は乙巳の変です。この2日後に皇極天皇が退いて孝徳天皇(こうとくてんのう)が即位し、中大兄皇子は皇太子となりました。この年に定められた元号「大化」は、日本で最初の元号とされるものです。翌646年の改新の詔(かいしんのみことのり)から進んだ一連の政治改革が、その元号をとって大化の改新と呼ばれます。


事件と改革は、地続きではあっても同じものではありません。現在は「645年=乙巳の変」「その後の改革=大化の改新」と呼び分けるのが基本です。

おまけトリビア

蘇我蝦夷が邸宅に火を放ったとき、蘇我氏の手元にあった歴史書も一緒に燃えたとされます。『天皇記』『国記』——推古朝に編まれたと伝わる、日本でも最古級の歴史書です。『国記』については、焼かれるさなかに火の中から取り出され、中大兄皇子に差し出されたと『日本書紀』は記していますが、現存はしていません


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、乙巳の変をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

乙巳の変の背景


厩戸王(うまやとおう・聖徳太子)の死後、蘇我氏を抑える存在がいなくなったとされます。蘇我蝦夷は甘樫丘に自分と息子・入鹿の邸宅を並べて建て、入鹿は父から紫の冠を授けられて後継の地位を固めます。

そして643年、入鹿は兵を動かして斑鳩宮(いかるがのみや)の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻めました。山背大兄王は厩戸王の子です。山背大兄王は一族とともに自害し、厩戸王の血を引く家系はここで絶えました。皇位継承に直結する一族が、大臣(おおおみ)の家の武力で消されたことになります。

この一件が、中大兄皇子と中臣鎌足を動かしたと考えられています。「次は自分たちだ。」そう受け取られてもおかしくない事件でした。

そもそも蘇我氏は、馬子・蝦夷・入鹿と三代にわたって皇位の継承に深く関わってきた家です。643年の襲撃は、その関与が武力の行使にまで及んだ場面として受け取られています。

人物と流れ


時期出来事
643年11月蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、厩戸王の一族が滅ぶ
645年6月12日飛鳥板蓋宮の儀式の最中に蘇我入鹿が討たれる
645年6月13日蘇我蝦夷が邸宅に火を放ち自害。蘇我氏本宗家滅亡
645年6月14日皇極天皇が譲位し、孝徳天皇が即位
同時期中大兄皇子が皇太子に。阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣、中臣鎌足が内臣(うちつおみ)に
645年日本で最初の元号とされる「大化」が定められ、のちに難波へ遷都
646年改新の詔が出される(ここからが大化の改新)


入鹿殺害の実行役として名が伝わるのは、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かずらきのわかいぬかいのあみた)です。中大兄皇子自身も入鹿に斬りつけたと記されています。

当日の合図役だった蘇我倉山田石川麻呂は、討たれた入鹿と同じ蘇我氏の一族でした。つまり、蘇我氏そのものが倒されたわけではなく、権力を握っていた本宗家の系統が倒されたということです。石川麻呂が変の後に右大臣となったことが、その性格をよく表しています。

事件は宮中の一日で終わったわけでもありません。入鹿が討たれたあと、中大兄皇子は法興寺(飛鳥寺)に入って兵を集め、蝦夷側との衝突に備えました。皇位継承の有力候補だった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は、自分の宮へ逃げ帰りました。翌日の蝦夷の自害までは、まだ結果の見えない状態でした。

史実と学説


乙巳の変の経過は、ほぼ『日本書紀』の記述に拠っていますが、この点に注意が必要です。書紀を編ませたのは、蘇我氏を倒した側の系譜が権力を握った時代の朝廷でした。

実際、蘇我氏の「専横」を示すとされてきた要素には、見直しが進んでいます。入鹿への紫の冠の授与は蘇我氏内部の相続の問題にすぎないという見方、邸宅を「宮門」、子を「王子」と呼んだという記述は日本書紀の文飾だとする指摘、甘樫丘の邸宅の防備強化は国防上の政策と考えられるという説——いずれも、蘇我氏が悪役というイメージを作ったのは記述の側かもしれない、という解釈です。

さらに、入鹿が斬られる場面そのものについても、日本書紀のもとになった史料の段階で作られた創作だとする指摘があります。事件が起きたこと自体を疑う声は多くありませんが、劇的な描写をそのまま映像のように受け取るのは避けたほうがよさそうです。

なお、この政変から新政権の改革までをまとめて「大化の改新」と呼ぶ言い方が定着したのは近代に入ってからで、当時からあった呼称ではありません。事件名として「乙巳の変」を立て、改革を「大化の改新」とする区別も、そうした整理の結果です。


トリビアの真相


蘇我蝦夷が自宅に屋敷に火を放ったとき、そこにあった『天皇記』『国記』も焼失したと言われています。この2つは、推古朝に厩戸王(聖徳太子)と蘇我馬子が編纂したと伝わる書物ですが、現存しません。ただし『国記』には、火の中から取り出されたという逸話が伝わっています。『日本書紀』皇極天皇4年6月条には、次のようにあります。

蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る


燃えさかる屋敷から『国記』を取り出し、中大兄皇子に差し出した人物がいた、という記述です。なお、この人物の名は伝わり方に幅があり、「船史恵尺」とも「船恵尺」とも書かれ、読みも「ふねのふびとえさか」「ふねのふひとえさか」「ふなのえさか」などが伝わっています。

つまり私たちは、飛鳥時代の政治を『日本書紀』の目でしか見られない状態に置かれています。日本書紀の偏りが議論になり続けるのは、比べる相手がこの日に燃えてしまったからでもあります。

蘇我氏がなぜ歴史書を手元に置いていたのかも、考えてみると重要な点です。国の歴史をまとめる事業に、蘇我氏が中心的に関わっていたということでもあります。悪役として描かれた一族が、実は国の記録づくりの担い手でもあった——そう考えると、乙巳の変で失われたものは権力だけではありませんでした。

なお「大化」という元号が定められ、都が難波へ移ったのも、この政変のあとの動きです。この「大化」は、一般に日本で最初の元号とされています。日本の元号はここから始まり、途中に使われない時期をはさみながら、令和まで続いています。そして、その最初の元号の名が、そのまま翌年からの改革の呼び名「大化の改新」になりました。事件の一日だけを見ていると分かりませんが、乙巳の変は、その後に続く政治の作り直しの入口にあたります。

試験に出るポイント

「645年に起きた事件は何か」の答えは乙巳の変です。大化の改新は646年の改新の詔から進む改革の総称なので、年号とセットで混ぜないこと。中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿・皇極天皇・孝徳天皇の役割と、643年の山背大兄王襲撃が前段にあることが頻出です。「日本で最初の元号は大化」も単独で問われます。


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