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【朝鮮戦争と特需、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約の締結】 受験日本史まとめ 84
著作名: Cogito
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サンフランシスコ講和条約の締結

吉田茂首相は、講和条約の核心がアメリカ軍基地問題であると考えていました。そのため、日本側からアメリカ軍駐留を希望する形で、基地存続を認める方針をとりました。また、朝鮮戦争勃発により、アメリカ軍駐留は国民の合意を得やすい状況となっていきました。

一方アメリカも、これ以上の講和延期は共産諸国側からアメリカが日本の植民地化を狙っているという主張を裏付けることになると考え、日本を自由主義世界の一員として迎え、講和締結の方針を決意しました。

こうして1951年(昭和26年)9月4日からサンフランシスコ講和会議が開かれ、議論の紛糾を避けるため中華人民共和国と中華民国を除く52カ国が参加し、インド・ビルマ(現ミャンマー)は条約案の不満から出席しませんでした。9月8日、共産圏のソ連・ポーランド・チェコスロヴァキアを除く48カ国がサンフランシスコ平和条約(対日平和条約)に調印し、1952年(昭和27年)4月28日、対日平和条約が発効し、7年に及ぶ連合国の日本占領は終了しました。

この講和条約に対し、南原繁・大内兵衛ら知識人、日本共産党、日本社会党などは、西欧諸国との単独講和であると批判し、ソ連・中華人民共和国を含む全ての交戦国との全面講和を目指すべきだと主張しました。社会党ではこの講話問題をめぐり、右派じゃ講和条約に賛成だが安保条約には反対し、左派は講和条約・安保条約ともに反対し、党内は左右両派に分裂しました。

平和条約とともに日米安全保障条約も9月8日に調印され、アメリカ軍駐留が決定しましたが、アメリカは日本に対する防衛義務を負わず、条約の期限も明記されていませんでした。この条約に基づき、日米行政協定が結ばれ、日本は基地を提供し、駐留費を分担することになりました。日米行政協定には、アメリカ軍人の刑事裁判上の特権や基地の無償提供、防衛分担金の支払いが規定されていました。

その後、日本は1952年(昭和27年)4月に中華民国、同年6月にインド、1954年(昭和29年)にビルマと平和条約を結び、多くの国は賠償請求権を放棄しましたがフィリピン・インドネシア・ビルマ・南ヴェトナムに対しては賠償を支払いました。

こうした賠償は、日本経済が回復しつつある中で、賠償金支払いが重荷になると考えたアメリカの意向もあり、大部分の賠償請求権は放棄されました。基本的に、日本が戦前期に保有していた中国153億ドル、朝鮮52億ドル、樺太4億ドルの在外資産を現物で提供し、これが最大の賠償金支払いとなりました。個別では、ビルマに2億ドル、フィリピンに8億ドル、インドネシアに約6億ドル、南ヴェトナムに発電所の資金供与として賠償金4000万ドルを支払いました。韓国には連合国ではなかったため、日本の植民地支配に対する対日請求権という形で、無償経済協力3億ドル、低利借款2億ドル、民間借款3億ドルを行いました。タイも連合国ではありませんでしたが、円精算不足として54億円相当のポンドを支払いました。フランスにも、仏領インドシナにおける円精算不足金として15億円相当のポンドを支払いました。この他、シンガポール・マレーシア・モンゴル・イギリス・オランダなど連合国捕虜への補償がなされましたが、非調印国への賠償問題は将来的な問題として残されました。




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