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源頼朝が征夷大将軍になるまで。挙兵から1192年までの流れをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】 |
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著作名:
かわちゃん
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源頼朝(みなもとのよりとも)は、1180年の挙兵から1192年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられるまでの12年で、鎌倉を拠点に武士の政権を組み立てました。平氏を滅ぼす戦いは、弟たちに任せています。この記事では、頼朝がいつ、何を手に入れたのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
一言でいえば、頼朝は鎌倉を拠点にしたまま、武士をまとめる役所と、朝廷に認めさせた権限を一つずつ積み上げていきました。
平氏を滅ぼす戦いで軍を率いたのは、弟の範頼と義経です。頼朝はその間、鎌倉で役所づくりと朝廷への働きかけを続けました。
ここまでが1分の要約です。ここからは、頼朝が将軍になるまでの流れを、もう一歩深く知りたい方向けに解説します。
頼朝は源義朝の子です。1159年の平治の乱で父が敗れたあと、伊豆に流されました。
1180年、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が、平氏を討てという令旨(りょうじ)を各地の源氏に出しました。伊豆の頼朝にこれを届けたのは、叔父の源行家(みなもとのゆきいえ)です。頼朝は同じ年に伊豆で兵を挙げました。石橋山の戦いに敗れて安房(あわ)へ逃れたものの、上総広常ら、房総の武士を味方に加えて勢いを取り戻し、鎌倉に入って本拠としました。
平氏は頼朝を討つ軍を送りますが、富士川で頼朝方と向き合うと、戦わずに退きます。頼朝は西へ追うことはせず、鎌倉に戻って東国を固める道を選びました。そして同じ年のうちに、侍所(さむらいどころ)を設けます。頼朝に従う武士、つまり御家人(ごけにん)を束ねる役所で、長官の別当には和田義盛(わだよしもり)が任じられました。
1183年、平氏は源義仲(みなもとのよしなか)に敗れて都を離れました。ところが都に入った義仲は、やがて後白河法皇と対立します。都のマナーを知らなかった義仲の、粗野な性格が原因だったとも言われます。頼朝はこの機をとらえて法皇に働きかけ、寿永2年(1183年)10月、東国の支配を朝廷に認めさせました。これを寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)と呼びます。
翌1184年、頼朝は弟の範頼(のりより)と義経を送って義仲を討たせました。二人はそのまま平氏を追い、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と戦いを重ねます。平氏が滅んだのは1185年です。
この間、頼朝自身は鎌倉に残っていました。1184年には公文所(くもんじょ)と問注所(もんちゅうじょ)を開いています。公文所は政務を、問注所は訴訟を受け持つ役所です。長官には、京都から来た大江広元(おおえのひろもと)と三善康信(みよしやすのぶ)がつきました。公文所は、のちに政所(まんどころ)と名を改めます。
平氏が滅んだあと、頼朝と義経の仲は悪くなっていきます。文治元年(1185年)10月、後白河法皇は義経に頼朝を討つ命令を出しました。義経が叔父の行家とともに宣旨を出すよう迫ったとも、頼朝を抑えたい法皇の考えだったともいわれます。
しかし義経らのもとには兵が集まらず、二人はまもなく京都を離れます。一方の頼朝は東国の武士を京都へ送って強い怒りを示します。これを受けて朝廷は一転し、義経らを追う命令を出しました。文治元年(1185年)11月には、北条時政(ほうじょうときまさ)が兵を率いて京都に入り、朝廷に迫って守護(しゅご)と地頭(じとう)を置く許しを得ました。この許しは、文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)と呼ばれます。義経らを捕らえるため、というのがその名目でした。守護と地頭を置く案は、同じ月に大江広元が頼朝に進言したものと伝えられています。
1189年、頼朝は義経をかくまった奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)を攻め滅ぼします。翌1190年には京都に上って後白河法皇と対面し、権大納言(ごんだいなごん)と右近衛大将(うこんのえだいしょう)に任じられましたが、まもなく両方を辞めて鎌倉に戻りました。
法皇は1192年に亡くなり、頼朝は建久3年(1192年)7月12日、朝廷より征夷大将軍に任じられます。(当時の天皇は後鳥羽天皇。)
征夷大将軍は、もともと朝廷に従わない東北地方の人々、蝦夷(えみし。「えぞ」と読む場合もあります)を討つ軍の指揮官に与えられた役職です。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任じられたことで知られています。
頼朝が就いてから、この職の性格は変わります。武士の政権のトップが征夷大将軍に任じられる慣例が、ここから始まったのです。
頼朝の政権を支えたのは、頼朝と御家人との結びつきです。頼朝は御家人の土地を保証し、手柄に応じて新しい土地を与えました(御恩)。御家人はその代わりに、頼朝のために戦いました(奉公)。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる源頼朝が征夷大将軍になるまで」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・戦場を弟に任せた頼朝は、鎌倉で何をしていたのか
・「頼朝を討て」という命令は、なぜ向きを変えたのか
・征夷大将軍は、もともとどんな役職だったのか
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・戦場を弟に任せた頼朝は、鎌倉で何をしていたのか
・「頼朝を討て」という命令は、なぜ向きを変えたのか
・征夷大将軍は、もともとどんな役職だったのか
1分でわかる源頼朝が征夷大将軍になるまで
一言でいえば、頼朝は鎌倉を拠点にしたまま、武士をまとめる役所と、朝廷に認めさせた権限を一つずつ積み上げていきました。
1180〜1184年 鎌倉で足場を固める
1180年に兵を挙げた頼朝は、東国の武士を味方につけ、鎌倉に侍所を設けて家来の御家人を束ねました。1183年には東国を治める権限を朝廷に認めさせ、1184年には公文所と問注所を開いています。
1180年に兵を挙げた頼朝は、東国の武士を味方につけ、鎌倉に侍所を設けて家来の御家人を束ねました。1183年には東国を治める権限を朝廷に認めさせ、1184年には公文所と問注所を開いています。
1185年 討たれる側から、守護・地頭へ
平氏が滅んだあと、頼朝は弟の義経と対立します。文治元年(1185年)10月、後白河法皇は義経に頼朝を討つ命令を出しました。しかし頼朝が京都へ兵を送ると、命令は義経らを追うものに改められます。頼朝はさらに、全国に守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせました。
平氏が滅んだあと、頼朝は弟の義経と対立します。文治元年(1185年)10月、後白河法皇は義経に頼朝を討つ命令を出しました。しかし頼朝が京都へ兵を送ると、命令は義経らを追うものに改められます。頼朝はさらに、全国に守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせました。
1189〜1192年 奥州藤原氏を滅ぼし、将軍へ
頼朝は1189年、義経をかくまった奥州藤原氏を攻め滅ぼします。そして後白河法皇が世を去った1192年、征夷大将軍となりました。
頼朝は1189年、義経をかくまった奥州藤原氏を攻め滅ぼします。そして後白河法皇が世を去った1192年、征夷大将軍となりました。
平氏を滅ぼす戦いで軍を率いたのは、弟の範頼と義経です。頼朝はその間、鎌倉で役所づくりと朝廷への働きかけを続けました。
おまけトリビア
征夷大将軍は、もとは東北地方の蝦夷(えみし)と戦う軍の指揮官の役職でした。頼朝のあと、武士の政権のトップがこの職に就くことが慣例になっていきます。
征夷大将軍は、もとは東北地方の蝦夷(えみし)と戦う軍の指揮官の役職でした。頼朝のあと、武士の政権のトップがこの職に就くことが慣例になっていきます。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、頼朝が将軍になるまでの流れを、もう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■挙兵の背景
頼朝は源義朝の子です。1159年の平治の乱で父が敗れたあと、伊豆に流されました。
1180年、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が、平氏を討てという令旨(りょうじ)を各地の源氏に出しました。伊豆の頼朝にこれを届けたのは、叔父の源行家(みなもとのゆきいえ)です。頼朝は同じ年に伊豆で兵を挙げました。石橋山の戦いに敗れて安房(あわ)へ逃れたものの、上総広常ら、房総の武士を味方に加えて勢いを取り戻し、鎌倉に入って本拠としました。
平氏は頼朝を討つ軍を送りますが、富士川で頼朝方と向き合うと、戦わずに退きます。頼朝は西へ追うことはせず、鎌倉に戻って東国を固める道を選びました。そして同じ年のうちに、侍所(さむらいどころ)を設けます。頼朝に従う武士、つまり御家人(ごけにん)を束ねる役所で、長官の別当には和田義盛(わだよしもり)が任じられました。
■人物と流れ
| 年 | 頼朝が手に入れたもの・出来事 |
| 1180年 | 挙兵し、鎌倉を本拠にする。侍所を設ける |
| 1183年 | 東国を治める権限を朝廷に認めさせる |
| 1184年 | 公文所・問注所を開く |
| 1185年 | 平氏が滅ぶ。頼朝を討つ命令が出たのち、義経らを追う命令に改められる。全国に守護と地頭を置けるようになる |
| 1189年 | 奥州藤原氏を攻め滅ぼす |
| 1192年 | 後白河法皇が世を去る。同じ年のうちに、頼朝が征夷大将軍となる |
1183年、平氏は源義仲(みなもとのよしなか)に敗れて都を離れました。ところが都に入った義仲は、やがて後白河法皇と対立します。都のマナーを知らなかった義仲の、粗野な性格が原因だったとも言われます。頼朝はこの機をとらえて法皇に働きかけ、寿永2年(1183年)10月、東国の支配を朝廷に認めさせました。これを寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)と呼びます。
翌1184年、頼朝は弟の範頼(のりより)と義経を送って義仲を討たせました。二人はそのまま平氏を追い、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と戦いを重ねます。平氏が滅んだのは1185年です。
この間、頼朝自身は鎌倉に残っていました。1184年には公文所(くもんじょ)と問注所(もんちゅうじょ)を開いています。公文所は政務を、問注所は訴訟を受け持つ役所です。長官には、京都から来た大江広元(おおえのひろもと)と三善康信(みよしやすのぶ)がつきました。公文所は、のちに政所(まんどころ)と名を改めます。
■史実と学説
平氏が滅んだあと、頼朝と義経の仲は悪くなっていきます。文治元年(1185年)10月、後白河法皇は義経に頼朝を討つ命令を出しました。義経が叔父の行家とともに宣旨を出すよう迫ったとも、頼朝を抑えたい法皇の考えだったともいわれます。
しかし義経らのもとには兵が集まらず、二人はまもなく京都を離れます。一方の頼朝は東国の武士を京都へ送って強い怒りを示します。これを受けて朝廷は一転し、義経らを追う命令を出しました。文治元年(1185年)11月には、北条時政(ほうじょうときまさ)が兵を率いて京都に入り、朝廷に迫って守護(しゅご)と地頭(じとう)を置く許しを得ました。この許しは、文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)と呼ばれます。義経らを捕らえるため、というのがその名目でした。守護と地頭を置く案は、同じ月に大江広元が頼朝に進言したものと伝えられています。
1189年、頼朝は義経をかくまった奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)を攻め滅ぼします。翌1190年には京都に上って後白河法皇と対面し、権大納言(ごんだいなごん)と右近衛大将(うこんのえだいしょう)に任じられましたが、まもなく両方を辞めて鎌倉に戻りました。
法皇は1192年に亡くなり、頼朝は建久3年(1192年)7月12日、朝廷より征夷大将軍に任じられます。(当時の天皇は後鳥羽天皇。)
1192年の任官と後白河法皇の死とのあいだに、どのような因果関係があったのかについては、見方が分かれています。この記事では、法皇が亡くなったあとに任じられた、という時間の順番だけを書いています。また、鎌倉幕府がいつ成立したと見るかにもいくつかの説があり、「鎌倉幕府の成立」の記事で詳しく解説しています。
■トリビアの真相
征夷大将軍は、もともと朝廷に従わない東北地方の人々、蝦夷(えみし。「えぞ」と読む場合もあります)を討つ軍の指揮官に与えられた役職です。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任じられたことで知られています。
頼朝が就いてから、この職の性格は変わります。武士の政権のトップが征夷大将軍に任じられる慣例が、ここから始まったのです。
試験に出るポイント
1180年の侍所、1183年の東国支配の公認、1184年の公文所・問注所、1185年の守護・地頭、1192年の征夷大将軍という順番が頻出です。公文所の長官は大江広元、問注所の長官は三善康信。守護・地頭は、義経らを捕らえることを名目に認められました。
1180年の侍所、1183年の東国支配の公認、1184年の公文所・問注所、1185年の守護・地頭、1192年の征夷大将軍という順番が頻出です。公文所の長官は大江広元、問注所の長官は三善康信。守護・地頭は、義経らを捕らえることを名目に認められました。
頼朝の政権を支えたのは、頼朝と御家人との結びつきです。頼朝は御家人の土地を保証し、手柄に応じて新しい土地を与えました(御恩)。御家人はその代わりに、頼朝のために戦いました(奉公)。
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