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遣隋使とは?その目的と小野妹子が届けた国書についてわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
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遣隋使(けんずいし)とは、飛鳥時代の倭国(日本)が、中国を統一した大帝国・隋へたびたび送った外交使節の総称です。この記事では、遣隋使の目的と、小野妹子が届けた国書「日出づる処の天子」の意味を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

このテキストは「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成です。最初の「1分でわかる遣隋使」だけで、遣隋使の要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・『日本書紀』に書かれなかった「最初の遣隋使」

・皇帝を怒らせた国書、それでも国交が続いたのはなぜか

・皇帝の返書は、なぜ帰り道で消えたのか


1分でわかる遣隋使

遣隋使とは、一言でいえば、超大国・隋に「対等」を挑みながら、その制度と学問を持ち帰った使節です。

「天子」を名乗った国書

607年、使者の小野妹子(おののいもこ)が携えた国書には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とありました。天子は本来、中国皇帝ただひとりの称号。それを倭国の王も名乗るという、異例の対等宣言でした。


皇帝は怒った。それでも使者を送ってきた

隋の皇帝・煬帝(ようだい)は「無礼だ」と不快感を示したと伝わります。それでも翌608年には、返礼の使者・裴世清(はいせいせい)を倭国へ派遣。当時の隋は高句麗との対立を抱えており、倭国と敵対する余裕がなかったという事情が指摘されています。


最大の成果は、留学生

使節には高向玄理(たかむこのくろまろ)・旻(みん)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)ら留学生・学問僧が同行しました。二十数年におよぶ留学から帰った彼らは、645年に始まる大化の改新を支える頭脳になります。


遣隋使は、614年の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣を最後に、618年の隋の滅亡とともに幕を閉じます。ただし事業そのものは終わりません。630年、今度は遣唐使として引き継がれていきました。

おまけトリビア

小野妹子は帰国後、「煬帝からの返書を、帰り道の百済で奪われた」と報告しています。一度は流刑と決まったのに、まもなく恩赦。実は倭国に都合の悪い返書を、わざと処分したのでは……という説もあります。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、遣隋使をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

遣隋使の背景


589年、隋が南北に分裂していた中国を統一します。東アジアに久しぶりに現れた超大国です。倭国にとって隋は、脅威であると同時に、政治制度や仏教文化の「最先端」でもありました。

もうひとつの事情が朝鮮半島です。倭国は半島での立場、とくに新羅との関係を有利にしたいという思惑を抱えていました。大国・隋とのパイプは、そのための外交カードにもなります。

こうして推古天皇(すいこてんのう)の朝廷は、隋への使節派遣に踏み切ります。持ち帰った知識は、冠位十二階や十七条憲法といった国づくりにも生かされたとされます。

人物と流れ


出来事
600年最初の遣隋使。『隋書』のみに記録があり、使者の名は不明
607年小野妹子が国書を携えて渡海。通訳は鞍作福利(くらつくりのふくり)
608年妹子が隋使・裴世清とともに帰国。同年、妹子が再び派遣され、高向玄理・旻・南淵請安ら留学生・学問僧が同行
614年犬上御田鍬を派遣。最後の遣隋使となる
618年隋が滅び、唐が成立
630年犬上御田鍬が最初の遣唐使として渡海


注目は600年の第1回です。『隋書』によれば、倭の使者は文帝に倭国の政治のやり方を説明したものの、「はなはだ道理に合わない」と諭されてしまいました。ところがこの派遣、『日本書紀』にはひと言も出てきません。体裁の悪い記録だったため書き残されなかったのでは、という見方があります。この経験が冠位十二階などの国制整備のきっかけになったとする説もあり、「失敗から学んだ第1回」だった可能性があります。

史実と学説


派遣の回数は、じつは確定していません。『日本書紀』と『隋書』とで記録が食い違っており、3回から6回まで説が分かれています。入試でも回数そのものはまず問われません。

国書の「日出づる処」「日没する処」も、単純に「日本が上、隋が下」という意味ではありません。仏典に由来する、東と西を指す表現とする解釈があります。それでも「天子」の称号を双方に使った点は決定的で、中華思想では天子は天下にただひとり。煬帝が「蛮夷の書に無礼あり」と不快を示したのは、この一線を越えられたからでした。

それでも隋は国交を断ちませんでした。高句麗遠征を控えた隋にとって、東方の倭国まで敵に回すのは得策ではなかった、という国際情勢がその背景に指摘されています。倭国は隋の臣下となる冊封は受けないまま、使節と留学生を送り続けました。

国書の差出人は、通説では聖徳太子とされます(現行の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」を主として「厩戸王(聖徳太子)」と併記するのが一般的です)。また600年の使者を誰とみるかにも諸説あり、確定していません。


トリビアの真相


要約で触れた「消えた返書」の話は、『日本書紀』に記された出来事です。妹子は「煬帝の返書を百済で掠め取られた」と報告し、責任を問われて一度は流刑と決まりますが、まもなく赦されました。

ここで浮かぶのが、「わざと処分したのではないか」という説です。返書は、倭国側の期待した「対等」とは言えない内容だったとされます。そのまま朝廷に届ければ、外交の建前が崩れてしまう。妹子がまもなく赦されたことも、朝廷ぐるみの筋書きだったのでは、という想像を誘います。説はあくまで説。ただ、外交文書ひとつの扱いに国の意地がにじむ、飛鳥時代らしい事件です。

試験に出るポイント

607年=小野妹子・国書「日出づる処の天子」・煬帝
608年=裴世清の来日と高向玄理・旻・南淵請安の留学
614年=犬上御田鍬。犬上御田鍬は「最後の遣隋使」であり「最初の遣唐使」(630年)でもある点が頻出です。


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