レピドゥスとは
レピドゥスは、共和政ローマ末期の著名な政治家および軍人であり、第2回三頭政治の一員として知られています。
レピドゥスの生涯
レピドゥスは紀元前89年頃、ローマの名門アエミリウス氏族に生まれました。父親である同名のマルクス・アエミリウス・レピドゥスは、紀元前78年の執政官であり、スラの死後に反乱を起こしましたが、失敗しサルデーニャで亡くなりました。若い頃から政治に関心を持っていたレピドゥスは、カエサルの支持者として頭角を現しました。
初期の政治キャリア
紀元前49年、レピドゥスは法務官(プラエトル)に任命され、カエサルがポンペイウスと戦っている間、ローマの内政を担当しました。カエサルからの信任を受け、紀元前46年には執政官(コンスル)に選出されました。カエサルが紀元前44年に暗殺されると、レピドゥスは最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)に就任し、カエサルの後継者としての地位を確立しようとしました。
第2回三頭政治
カエサルの暗殺後、ローマは再び混乱に陥りました。レピドゥスはマルクス・アントニウス、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)と共に第2回三頭政治を結成しました。この同盟はカエサルの暗殺者たちを討伐し、ローマの政治を安定させることを目的としていました。
紀元前43年、三頭政治はプロスクリプティオ(追放令)を発動し、多くの元老院議員やエクイテス(騎士階級)が粛清されました。この措置により、三頭政治は反対勢力を排除し、権力を強化しました。紀元前42年のフィリッピの戦いで、三頭政治はカエサルの暗殺者たちを打ち破り、その支配が確立されました。
領土の分割と内部分裂
フィリッピの戦いの後、三頭政治はローマの領土を分割しました。レピドゥスはアフリカ属州を支配し、アントニウスは東方領土を、オクタウィアヌスは西方領土をそれぞれ統治しました。しかし、三頭政治の内部では対立が次第に深まりました。
紀元前36年、レピドゥスはオクタウィアヌスによって三頭政治から追放され、アフリカ属州の支配権を失いました。その後、彼は最高神祇官の地位を保持しながら、ローマから離れた田舎で隠遁生活を送りました。
レピドゥスの影響と遺産
レピドゥスの死後も、彼の影響はローマの政治に残り続けました。彼の政治的手腕と軍事的才能はローマの領土拡大と統治に大きく寄与しましたが、最終的な敗北はローマの政治体制に根本的な変化をもたらす結果となりました。