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【五・一五事件と政党政治の終わり、天皇機関説問題、二・二六事件】 受験日本史まとめ 73
著作名: Cogito
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恐慌への対策

1931年(昭和6年)12月、犬養内閣の蔵相高橋是清は、内閣成立後にすぐさま金輸出再禁止を断行し、兌換制度を停止しました。これにより、日本は管理通貨制度の時代に入りました。金輸出再禁止により、円の為替相場は急激に下落し、一時100円が20ドルとなり、金解禁時代の半分となりました。しかし、不況の中で産業合理化をすすめていた諸産業は、円安を利用して輸出増大を図りました。

同時期、世界恐慌の対応策を各国がとりはじめていました。アメリカは1933年(昭和8年)以降、フランクリン=ローズヴェルト(ルーズヴェルト)大統領のもとで、政府資金で大規模な公共事業を行うニューディール政策を実施しました。イギリスは、1930年代初めから本国と植民地との結びつきを強化し、ブロック経済圏を確立しました。先にも述べたように、産業合理化と円安による輸出増大により、世界市場に安価な商品を売るようになった日本に対して、ソーシャル=ダンピングと非難し、輸入品の割当制や高関税をかけるなど自国産業の保護を進めました。こうしたイギリスの政策にも関わらず、日本の綿織物の輸出は急速に増加し、輸出規模がイギリスを抜き世界1位となりました。一方日本では、綿花・石油・屑鉄・機械など、アメリカへの依存度が依然として高い状況が続いていました。

政府の赤字国債発行による軍事費や農村救済費など財政膨張と、諸産業の輸出振興により産業界は活況となり、日本経済は1933年(昭和8年)ころには大恐慌以前の生産水準を回復しました。中でも、1931年(昭和6年)に重要産業統制法が公布され、産業界のカルテルの活動保護と生産価格の制限、満州事変後の軍需増大や政府の保護政策に支えられ、重化学工業が発展し、1930年代後半には軽工業生産を重化学工業生産が上回り、日本の産業構造が劇的に変化しました。

鉄鋼業では、1934年(昭和9年)に八幡製鉄所を中心とした製鉄大合同が行われ、半官半民の国策会社として日本製鉄会社が発足し、鋼材の自給がはじまりました。自動車工業や化学工業では、鮎川義介の日産コンツェルンや野口遵の日窒コンツェルンなど新興財閥が勢いを増し、軍部と結びついて朝鮮や満州に進出していきました。三井や三菱など旧財閥も次第に重化学工業部門に進出するようになっていきました。

明治から大正にかけて大きくなった三井・三菱などの既成財閥に対し、昭和初期に電機・機械・化学など重化学工業を中心に発展した新興企業集団が新興財閥でした。軍部、特に関東軍が一時満州経営から既成財閥を排除する方針をとったため、新興財閥が軍部と結び中国大陸に進出して急成長を遂げました。なかでも日本産業会社を中心とする日産コンツェルンが満州重工業開発会社を設立し、満州経営の中心となりました。他にも日本窒素肥料会社を中心とした日窒コンツェルンや理化学研究所を中心とする森矗昶の森コンツェルン、日本曹達会社を中心とする日曹コンツェルンなどが新興財閥として有名です。これら新興財閥は旧財閥に比べ株式公開や同族経営の排除などにより、より合理的な経営方針をとりました。
国家主義革新の高まり

1930年代に、満州事変を直接的な契機として国家主義(ナショナリズム)の気運が日本国内で高まりました。これに伴い革新運動が盛り上がり、その中心となったのが国家主義(右翼)革新団体でした。彼らは天皇中心の社会を強調し、軍部と結び活動を進め、政党(議会)政治・資本主義経済・国際協調外交の打破などを目指しました。これら運動には、共産主義や社会主義など左翼陣営の中からも転向者が現れるようになりました。1930年代初頭にコミンテルン指導の武装闘争方針に失敗し、当局の取り締まりで壊滅状態となっていた日本共産党も、最高指導者佐野学や鍋山貞親らが転向し、天皇制打破・帝国主義戦争反対という日本共産党の方針とモスクワのコミンテルンの指導のあり方を一国社会主義の立場から批判し、天皇のもとで一国社会主義革命を行い、満州事変を国民解放戦争にするべきと説きました。こうして治安維持法で検挙された9割の人々が転向し、治安当局は旧左翼関係者を官僚として起用しました。これは同時代のナチス=ドイツやソ連で反体制派や反党活動家が処刑・粛清されたのとは異なる日本独特の動きでした。

無産政党の中からも国家社会主義へ傾き、軍部に接近する動きが活発になりました。社会民衆党を離脱した赤松克麿が1932年(昭和7年)日本国家社会党を結成し、同年全国労農大衆党と合同し社会大衆党となりました。この党の書記長麻生久はのちに陸軍パンフレット起草に参画するなど、軍部と結んで資本主義体制を打破しようとする動きがおこりました。一方、軍部のなかにも既成政党(保守政党)を抑える目的で無産政党を支援する動きもあり、1936年(昭和11年)2月の総選挙で社会大衆党は5議席から18議席に拡大しました。社会主義を貫いていた鈴木茂三郎の日本無産党などは、1937年(昭和12年)に政府の弾圧により活動を停止しました。


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