律令国家の形成
壬申の乱
671年、天智天皇の死去後、翌年に
壬申の乱(じんしんのらん)が起こりました。天智天皇の弟の
大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智天皇の長男
大友皇子(おおとものおうじ)が大王位の継承をめぐって争ったのです。
最終的に近江大津宮を大海人皇子が陥落させ、大友皇子は自殺し、壬申の乱は終わりました。
天武天皇の即位
大海人皇子は、673年に
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、
天武天皇(在位673〜686)となり、大王に代わる君主号として、天皇を使うようになりました。
天武天皇は天智天皇の娘の鸕野皇女(のちの持統天皇)を皇后とし、皇族や皇親が主導する
皇親政治を行いました。この政治体制のもと、官僚制が整備され、官人個人に食封を支給する制度を定め、
律令官人化政策が進められました。
律令の制定
681年、律令の制定が始まり、国史の編纂も行われ、685年には冠位制を先行して施行しました。
684年、八草の姓が定められ、姓の再編成が始まります。八色の姓として、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)にわかれました。
天武天皇は新しく藤原京を造営を始めていましたが、686年に死去します。
天武天皇のあとをついで即位した皇后の
持統天皇は、689年に
飛鳥浄御原令を発し、
庚寅年籍(こういんねんじゃく)を690年に完成させます。
694年には飛鳥の北に
藤原京が完成し、遷都されました。
持統天皇は697年に文武天皇に皇位を譲りますが、太上天皇として後見しました。