社会主義圏の変容で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
東欧社会主義圏の崩壊
・ポーランドでは、1980年政府から自立した労組として、ポーランド自主管理労組「
連帯」が成立した。この労働組合の指導者ワレサは、ヤルゼルスキ首相など政府から弾圧されたが、共産主義政権が倒されたのちに、ポーランド大統領となった。
・東ドイツでは、東ドイツ社会主義統一党書記長の
ホネカーが1989年に退任し、18年間にわたる独裁が終わった。
・1989年11月9日、東ドイツ政府による旅行許可の規制緩和が発端となり、東ドイツ市民が西ベルリンになだれ込んだ。こうして、ベルリンの壁は崩壊し、東欧の共産主義圏は消滅し、1990年10月3日、東西ドイツは正式に統一し、
ドイツ連邦共和国となった。
・チェコスロヴァキアではハヴェルが大統領となり、後に同国が分離した後チェコの大統領となった。また、ルーマニアでは1989年に独裁者
チャウセスクが処刑された。
・東側の協力機構であった
コメコン、軍事同盟の
ワルシャワ条約機構は1991年に解体した。この解体により、東欧社会主義圏は消滅した。
アジア・アフリカ社会主義国の変容
・中国では、1979年の1月に
周恩来、7月に
朱徳、9月に
毛沢東が死去した。特に周恩来の死去に伴い、民衆がたむけた花輪が四人組によって撤去されたことがきっかけとなり、
第1次天安門事件が発生した。
・周恩来の死後、首相となった
華国鋒は、毛沢東の死後
四人組を逮捕し、正式に中国共産党主席となった。その後
鄧小平が実権を握ると、
4つの現代化、人民公社解体、改革開放、社会主義市場経済導入、米中国交正常化など、さまざまな政策を行った。
・
1989年6月には、デモを軍隊で鎮圧した
第2次天安門事件が発生したが、指導部はこれをおさえ共産党の独裁体制を敷いた。その後、国家主席の
江沢民、首相の
朱鎔基などが共産党を指導し、
香港返還、マカオ返還などを果たした。江沢民の後、
胡錦濤が総書記に、
温家宝が首相となった。
・1990年になると、
モンゴルが社会主義を離脱した。ベトナムでは
ドイ=モイ政策により市場経済の導入が図られた。
・1979年にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、
ポル=ポト政権を崩壊させ、
ヘン=サムリンを首班とする
カンボジア人民共和国が成立した。同時期、ベトナムがソ連の支援をうけてカンボジアに侵攻したことをうけて、中国も侵攻し、
中越(中国=ベトナム)戦争がおこった。この戦争は実戦経験豊富なベトナム軍が中国軍を追い出すけっかとなった。
・1989年にベトナム軍はカンボジアから撤退し、1991年のパリ和平協定に基づき
国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が設置され、1993年9月にシハヌーク国王を復位させ、
カンボジア王国が成立した。1998年の総選挙以降は
フンセン政権が成立した。
・朝鮮半島では、北の朝鮮民主主義人民共和国の
金日成のあとをつぎ、息子の
金正日が1997年に朝鮮労働党総書記に就任した。2000年になると、北朝鮮の金正日と韓国の
金大中が
南北両朝鮮首脳会談をひらいた。
・エチオピアでは1974年に革命が起き、
ハイレ=セラシエ皇帝の専制政治を打倒した。また、エチオピアのエトルリア併合に反対する
エトルリア解放戦線が組織され、同地域は1993年5月に分離独立した。