会津藩と庄内藩
江戸時代後半から開国の時期にかけて、会津藩は
京都守護職という幕府の役職について京都の警護を、庄内藩は江戸市中取締を幕府から任命されていました。このために薩摩藩や長州藩が中心となった新政府軍の目は、旧幕府の一員である会津藩と庄内藩にも向けられることとなりました。
なぜ会津藩と庄内藩に矛先が向けられたのか
本来であれば、幕府の一番の要であった徳川家に矛先が向けられるはずでした。しかし徳川慶喜は
大政奉還をして政権を返上、
鳥羽・伏見の戦いに始まる各地での戦いでは新政府軍に敗戦、そして江戸城を
無血開城したことによって、旧幕府軍は骨抜きにされてしまいます。それでもあきらめ切れなかった旧幕府の人たちが会津藩や庄内藩に集まって、新政府軍と戦おうという動きを見せたために、徳川家の次にこの両藩が矢面に立たされることになったのです。
奥羽越列藩同盟が結ばれるまでの動き
奥羽越列藩同盟には、東北の盟主であった仙台藩、米沢藩を始めとする東北の25藩、越後の6藩が参加しました。では何で、関係のない仙台藩や米沢藩が、新政府にはむかうような同盟を結んだのでしょうか。
時を少し戻します。新政府軍から、会津藩を討つよう東北の諸藩に命令が下ります。しかし東北の諸藩からしてみたら、釈然としません。自分たちの大切な兵を犠牲にしてなぜ会津や庄内と戦わなければならないのか。自分たちは新政府軍にいいように利用されているだけではないのか。そんな気持ちがあったのでしょう。名目上は出兵をしますが、なぁなぁに戦ってその場をおさめて帰ってきてしまいます。
さすがにこのままでは新政府軍にも顔が立たないので、東北の雄藩は、「会津藩と庄内藩を許してやってください」という嘆願書を
奥州鎮撫総督(奥州を管轄していた政府の組織)に提出します。しかし、そこの参謀であった
世良修蔵はこれを拒否し、なんと京都の新政府に向けて「東北の各藩は反抗的なので、すべて敵とみなして攻めるべし」との手紙を送ります。
しかしこの手紙は、京都に届く前に仙台藩士らの目にとまります。この手紙をみた仙台藩士らは激怒し、世良修蔵をつかまえて殺害してしまいました。
さすがに参謀が殺されたとなっては、ただ謝るどころでは許してもらえません。
東北の諸藩からすると、仮に会津藩と庄内藩が攻め込まれれば、自分たちも戦争に巻き込まれることになるので他人事ではありません。そこで仙台藩と米沢藩が中心となって、会津藩と庄内藩を許してもらえるよう本気で謝ろうとする同盟が結ばれます。それが
奥羽越列藩同盟です。
※この同盟は会津藩と庄内藩を救うための同盟なので、この2藩は同盟には入っていません。