後漢の滅亡
後漢は紀元後25年に建国され200年近くにわたって存在した王朝でした。
ところが後漢末になると、
太平道という民間宗教の教祖だった
張角が指導者となり、
黄巾の乱という大反乱が起こります。これに呼応するように、各地で農民反乱が頻発し、後漢はどんどん弱体化して行きました。
こうした中、後漢は各地に並立する豪族に新しい官位を与えることで国内の治安維持に務めるように働きかけます。
この時代、各地に散らばる大小様々な豪族を束ねたのが、
魏・呉・蜀という3つの群雄です。
群雄は次第に後漢を差し置いて覇権を争うようになり、220年に曹操が後漢を滅ぼすと、
三国時代に突入します。
三国時代の詳細な歴史書が、西晋代に陳寿によって書かれた『三国志』、三国時代を舞台にした物語が、明代に成立した『三国志演義』です。
三国時代と晋の変遷
三国時代は、魏の
曹操、蜀の
劉備、呉の
孫権からはじまり、その後子孫たちが激しく争います。
三国時代最も強力だったのは魏でしたが、曹操の息子の
曹丕(文帝)が死ぬと、一族の権力争いが勢いづき、最終的に臣下の司馬一族が実権を握ります。その後、
司馬炎に皇帝の地位を禅譲する事になり、新たに
晋(西晋)が建国されました。
司馬炎は晋の皇帝として武帝となり、280年に呉を滅ぼして中国統一を果たします。
ところが武帝の死後、今度は晋の中で、帝位をめぐって外戚の争いがおこります。
この争いを
八王の乱といい、各派閥が北方民族に軍事援助を受けながら戦ったため、これ以降北方民族が力をつけました。
北方系の
匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの民族は
五胡と呼ばれ、その後各地に独自の国を建てました。
特に匈奴は、316年に
永嘉の乱を起こし西晋を滅ぼすまでに強大化します。
西晋の滅亡後、司馬一族の生き残りの
司馬睿は、江南地域に逃れ、新たに
東晋を建国します。