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哲学者列伝 デカルト
著作名: サリー
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◯人物
 フランスで17世紀に活躍した哲学者。大陸合理論という哲学史の大きな流れを創り、近代哲学の父とも呼ばれている。幼いころイエスズ会が経営する名門ラ=フレーシュ学院で学んだが、そこでは文献の解釈に明け暮れ、抽象的で思弁的な学問とされるスコラ哲学が基盤となっていたため、デカルトはこれと決別。「世間という大きな書物」を学ぶために、多くの学者が集められていたオランダの軍隊に志願する。そこで学問的なインスピレーションを得て、アムステルダムに移り哲学研究に没頭した。やがてスウェーデンのクリスティーナ女王に教師として招かれるも、朝寝の習慣があったデカルトは早朝の講義に慣れず体調を崩し、53歳で風邪をこじらせ肺炎で死亡した。

◯著書
『方法序説』『哲学原理』『省察』
「良識はこの世で最も公平に配分されたものである。」(『方法序説』)

◯思想
 デカルトは、数ある学問の中でもとりわけ数学を重んじた人物であり、解析幾何学の発見など、その方面での活躍も目覚ましい。彼が哲学を研究し始めるにあたって拠り所としたのも数学、ないしは数学的方法である。デカルトは学問的方法としての数学を採用することで、確実な知識を得ることが出来ると考えたのであるが、これは具体的にはどういうことであろうか。
 数学においては、ある公式を個別の場面に適切に当てはめることで解を導くことが出来る。一つの確実な原理から個々の結果を推論する思考の方法を演繹法と呼ぶが、デカルトは数学のこのような点に着目した。つまり、哲学においてもある確実で普遍的な原理を打ち立てることによって、そこから諸々の確実な真理を導くことができると考えたのである。この時、ある原理が直感として明晰判明であることが、その原理が真理であり確実であると判断する基準である。つまり、精神が疑う余地なくはっきりと認識しており(明晰)、他のものからはっきりと区別されている(判明)ような原理を打ち立てることができれば、この原理は普遍的なものとして、数学における公式のように演繹的に用いることが出来るのである。
 では、そのような普遍的で確実な原理に到達するためにはどのような方法をとるべきだろうか。ここで採用されるのが有名な方法的懐疑である。すなわち、私たちに与えられる感覚的な経験や、伝統的な学問・学説、数学的に真であるとされる事柄でさえも、疑い得るものは全て偽であるとして排除するのである。その結果どうしても疑い得ない、明晰判明な原理が残されることになり、これを哲学の第一原理として採用することが出来る。
※ここからデカルトは徹底的な懐疑をあらゆるものに投げつける。例えば、目の前にあるバナナを私たちは見ることができるし、手に取ることもできれば剥いて食べ、味を感じることも出来る。しかし、それは全て夢の中の出来事なのかもしれない。デカルトは「目覚めと眠りとを区別することができる確かな標識がまったくない」ことを指摘する。つまり、私たちの生きるこの世界がマトリックスのような仮想現実でない証拠はどこにも無いのであり、その限りで感覚や経験は全て疑い得る。では、デカルト自身が多大な信頼を寄せる数学はどうだろうか。デカルトにおいてはこの数学すらも疑わしい。他人がある計算をして、その結果を正しいと思い込んでいる時に、私はその間違いを指摘することができる。しかし、逆にこの間違いを指摘しないこともできるのであって、そうであれば世界中あらゆる数学上の計算が全て間違いであることも有り得る。更に言えば、この世界が夢の中であるとすれば、何か論理的に考えられないような出来事(数学上の間違いなど)が起こったとしても、それを不思議に思わないということは、夢の中ではいくらでも有り得るのであるから、やはり数学も疑わしい。デカルトはここで満足せず、「悪しき霊で、しかも最高の力と狡知を持った霊が、あらゆる努力を傾注して私を欺こうとしている」とまで考え、神を含むありとあらゆるものを否定する。なお、デカルトといわゆる懐疑論との違いは、デカルトの懐疑があくまで方法的なものであり、ある地点に到達すればそれを解除することができるという点である。
 デカルトは方法的懐疑によって全てを疑い尽くしたかのように思われるが、それでもなお残るものがあるという。それはあるものを疑う私自身、それを偽であると排除する私自身である。ここから導き出される哲学の第一原理が、「我思う、故に我在り(cogito ergo sum)」という命題である。ここで言う「我」とは、方法的懐疑によって排除された「我」の身体や感覚のことではなく、それらを懐疑する自我としての「我」である。この「考える我」の発見は、主体的に思考する個人の自覚をあらわす近代的自我の伝統として、後の西洋哲学史において長く保存されることとなる。
 こうして、思考する精神というものの存在は保証されたが、デカルトはこれに続いて神についての考察を進める。神という観念はどのようにして生み出されたのだろうか。どのような結果であっても無から生じることは出来ないということは明晰判明に認められるので、神の観念は無から生まれたのでは無い。そしてそれは創りだされたものでもない。なぜなら神は最も完全なものという観念であるので、我々のような不完全な存在が完全なものを創りだすというのは、一定の無の部分から何かが生じたことになってしまうからである。以上のことから、神の観念は他ならぬ神自身が我々に生得的に与えたものである、ということが導き出される。このような生得観念と呼ばれるものは合理論の特徴であり、これに対する経験論は生得観念を否定する(ロックの白紙説など)。
 以上がデカルトにおける神の存在証明であり、これによって神の存在は保証され、精神と神というの二つの実体(他のものに依存せず、それ自体で独立に存在するもの)が認められた。ここに至ってデカルトの方法的懐疑は解除される。なぜなら、神の完全性の中でも重要な「誠実さ」という性質を考えれば、神が我々を欺くようなことは有り得ないからである。よって我々の認識は誤りうるものの、慎重かつ明晰判明に判断を下すことができれば、その認識は真なのである。こう考えてみると、感覚というものは神に与えられたものであるからして、神の「誠実さ」によって信頼できるものである。こうして、感覚によって認識することができる物体の存在も保証されることとなるのである。
 さて、以上のように精神・神・物体という三つの実体が保証されたが、この中で真の意味で実体と呼ばれるのは神のみである。なぜなら精神と物体はその存在を神に依存しているからであり、こうした点で神は無限実体と呼ばれる。対して精神と物体は神に依存しているものの、それ以外の何にも依存しないということから有限実体と呼ばれる。
※それぞれの実体は様々な性質を有するが、あらゆる性質の中で最も本質的なものを属性、二次的なものを様態と呼ぶ。精神の属性は思惟(思考)であり、様態は感情や意志、判断などである。物体の属性は延長(空間的な広がり)であり、様態は位置、形状、運動などである。この精神:思惟、物体:延長の図式はほぼ合理論における共通理解になっている。
 精神と物体をそれぞれ独立に考えるデカルトの物心二元論・心身二元論は、人間を外部の物体的世界から独立した精神と、運動法則によって機械的に動く身体に分けて考える。だが、ここにはある巨大な難問が付きまとう。それは、独立した実体である精神と身体の結合がどのように説明されるのか、ということである。例えば我々はストレスを感じることによって体調が優れなくなったりするが、両者が完全に独立して区別されているのならば、このようなことは有り得ない。デカルトは松果腺という脳の一部を精神と身体が唯一関係する場であるとしたが、この関係を一度認めてしまえば、両者が独立して存在する実体であるという規定は崩れ去ってしまう。このいわゆる「心身問題」は哲学の長い歴史における難問(ハード・プロブレム)として、今もその解答が試みられている。
※蛇足だが、我々はルネサンスを経たこのデカルトにおいても、彼自身が否定した教父哲学・スコラ哲学のような神の存在を認めるのか、という疑問を覚えることだろう。しかし、デカルトにおける神の存在証明の意義は中世のそれとは全く異なっていると考えられる。というのも、デカルトは精神・神・物体の順にその存在を証明していったが、この中で神は物体の存在を証明するための媒介であるに過ぎない、という見方ができるからである。このように考えれば、神の恩寵によってのみ人間は価値があるとする中世的な見解はここには無いと言うことができるだろう。とは言え、デカルトが神の存在証明に進むことへの批判は免れず、このような反対論の中からロックやヒュームといった経験論の流れが生まれ、大陸合理論に対するイギリス経験論の立場が形成されていったのである。

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