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ヨーロッパの封建社会 ②
著作名: 逆転検事
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荘園制のはじまり

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前回、封建の意味と、国王や有力者たちと諸侯との双務的契約関係について勉強しましたが、今回は封建社会の基盤だった荘園制について見ていきましょう。

まず、国王や、教会、貴族、騎士など、領地をもつ人々を領主と言いました。この人達は支配階級だったわけです。

荘園とは

この領地のことを荘園というのですが、荘園は領主の直営地と農民の保有地(耕地)とその他農民が共同利用する共有地(牧草地や森林など)を含むものでした。

直営地領主が直接経営する土地で、農奴の賦役による生産物はすべて領主のものになった。そのため農奴の労働意欲は低い。
保有地農奴が領主から借り受けた土地で、その対価として地代を納める。地代以外は自分たちの取り分になったので、比較的農奴の労働意欲は高かった。
共有地(入会地)森林、牧草地、湖沼など


このような荘園を古典荘園といいます。

農奴とは

次に、支配される側として農奴がいました。荘園内の農民たちのことです。
彼らは、家族や家、農具などの所有は認められていたのですが、領主に対して賦役(直営地の農作業)の義務があり、移動や職業選択の自由はありませんでした。

農奴には次のような負担がありました。

賦役直営地の農作業。
貢納保有地の生産物の一部を領主に納める。
十分の一税収穫の十分の一を教会に納める。
結婚税結婚の際、領主に納める。
死亡税農奴が死亡した時、相続人が領主に納める。
領主裁判権農奴に対して領主がさまざまな裁判を行える権利。


封建制の変化

荘園制によって社会制度が成立していた中世ヨーロッパですが、次第に封建制度も変化していきます。

古典荘園から地代荘園へ

まず、直営地と保有地に分かれていた古典荘園は、農奴の生産性が低いままでした。これは、直営地の生産物は全て領主に持っていかれてしまうので、農奴のやる気がなくなるという問題があったためです。

そのため、フランスで11世紀以降、イギリスで14世紀以降、地代荘園(純粋荘園)という荘園が現れます。

地代荘園は、領主の直営地をやめ、農奴へ貸し出す農奴保有地が大部分を占める荘園のことです。

これ以降、その名の通り、領主の収入は農奴の賦役ではなく、すべて生産物の地代になりました。

三圃制の登場

また、あたらしい農業生産の方法も登場します。

それまでの農業は、二圃制というものでした。これは、耕す土地の半分を休耕地として牛や羊を放牧し、動物のフンを栄養源にして土地の農業力を回復させ、次の年に耕作地として使うというものです。

地代荘園の登場で耕作地が広大になったので、三圃制は、これよりさらに進んで、耕作地を三分割して、春耕地秋耕地休耕地という三年サイクルで回すようになりました。

これにより、農業生産は飛躍的に向上し、農奴の立場も少しづつ向上して行きました。

荘園領主の権利向上

荘園領主の力関係も変化していきます。
代表的なものが不輸不入権の確立です。
これは、国王と言えども、荘園内の裁判や課税などを免除される権利で、この結果、荘園領主はその荘園内では絶対的支配者になり、中には国王に並ぶ領邦を持つ諸侯も出てくるようになります。

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