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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

オスマン帝国の歴史 ① ~メフメト2世とビザンツ帝国の滅亡~

著者名: エンリケ航海王子
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オスマン帝国の成立


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トルコといえば、ヨーロッパとアジアの架け橋というイメージの強い国ですが、現在のトルコ共和国となる前、そこにはオスマン帝国という国が存在していました。

アナトリア地方は、11世紀ころからルーム=セルジューク朝という王朝が統治していましたが、13世紀に入りモンゴル帝国がユーラシア大陸全般を支配下に置くようになると、弱体化します。

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(アナトリア地方)

アナトリア地方とは、日本語では小アジアと呼ばれるアナトリア半島を含む地域のことです。


モンゴルによってルーム=セルジューク朝が滅亡すると、そこに仕えていたオスマン=ベイ(在位1299〜1326)がアナトリア西部にオスマン帝国を樹立します。

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(オスマン=べイ)

オスマン帝国の領土拡張

オスマン帝国の初代君主となった彼は、帝国の領土拡張のためにビザンツ帝国と積極的に戦います。

はじめ、オスマン帝国の首都はアナトリア西北のブルサという都市でしたが、第3代皇帝ムラト1世(1362〜1389)が1362年にビザンツ帝国とバルカン半島のアドリアノープルの戦いに勝利し、この地を征服すると、トルコ語名エディルネとし、帝国の首都とします。

ムラト1世は積極的にバルカン半島の征服活動を行い、1389年のコソヴォの戦いでの勝利以降、これら地域は長期にわたりオスマン帝国の支配下に置かれるようになります。

次の第4代バヤジット1世(在位1389〜1402)は、ハンガリー王ジギスムントの軍隊を中心とするヨーロッパの十字軍を1396年ニコポリスの戦いで粉砕します。また、彼はカイロの弱体化したアッバース家のカリフからスルタンの称号を譲り受け、イスラム社会でもオスマン帝国は存在感を増していきます。

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(ニコポリスの戦い)

破竹の勢いを見せたバヤジット1世でしたが、1402年にアンカラの戦いティムール帝国と激突すると、これに惨敗し捕虜となり、後に病死してしまいます。彼の死後、皇帝の地位はおよそ10年間ほど空位になります。
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『教科書 世界史B』 山川出版社
『詳説世界史研究』 山川出版社
『世界史B 用語集』 山川出版社

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