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18_80 ヨーロッパ世界の形成と変動 / 東ヨーロッパ世界の成立

スラヴ民族の盛衰(ヤゲヴォ朝、セルビア王国、モスクワ大公国など) 受験対策問題 44

著者名: レキシントン
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スラヴ民族の盛衰で押さえておきたいポイント

※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。

スラヴ民族とは

・スラヴ民族とは、インド=ヨーロッパ語族で、東ヨーロッパに住んでいた民族である。主に西スラヴ、南スラヴ、東スラヴにわけられ、西スラヴ以外はビザンツ文化やギリシア正教を受容した。
  
西スラヴ族

・西方に拡大した西スラヴ人は、7世紀前半にサモ帝国、9世紀前半にチェック人の大モラヴィア帝国が建国された。この帝国はマジャール人に滅ぼされた。

・9世紀末には、大モラヴィア帝国からベーメン(ボヘミア)が自立し、プラハを中心としてプシェミスル朝(900?~1306)が統一を果たした。この王朝のヴァーツラフ1世は、ドイツ王ハインリヒ1世に臣従し、積極的にカトリックを受容した。10世紀には、プラハにカトリックの司教座が建てられ、ベーメン王国が建国され、13世紀以降オーストリアやハンガリーを破るなど強国となっていった。

・14世紀には、ドイツ系のルクセンブルク朝が成立し、ボヘミア(ベーメン)王カレル1世は神聖ローマ帝国皇帝カール4世として皇帝も兼任し、プラハを大司教座に昇格させ、ドイツ最初のプラハ大学の創設、金印勅書の発布など、積極的な政策を行った。

・10世紀には、西スラブ族のポーランド人がピアスト朝を建国し、カトリックを受容した。ボレスワフ1世のもと、ポーランドの首都グニェズノには大司教座が設置され、神聖ローマ帝国からポーランド王国国王の地位が与えられた。グニェズノはしだいに内紛で荒廃したため、都はクラクフに遷都された。この間、ドイツ騎士団によるプロイセン入植など、ドイツ人の東方植民がさかんになり、分裂状態が続いた。カジミェシュ3世(在位1333~1370)の治世にポーランドは統一を果たし、王はドイツ騎士団との和約、貨幣改革、法典整備、クラクフ大学の創設などを行った。

・同時期、ポーランド北部にはスラブ系に近いバルト語系のリトアニア人が居住していた。リトアニア人は、ドイツ騎士団の東方植民に対抗して13世紀半ばに統一を果たし、14世紀にリトアニア大公国となった。その後、東のモンゴルや北のドイツ騎士団の圧力が続いたため、1386年、リトアニア大公のヤゲウォ(ヤゲロー、リトアニア名:ヤガイラ)はカトリックに改宗し、ポーランド女王と結婚し、クラクフを首都としたリトアニア=ポーランド王国が誕生した。このヤゲウォ朝は1410年タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破るなど、王国の最盛期を築いた。

・西スラヴ人の一派スロヴァキア人は、大モラヴィア帝国がマジャール人によって滅ぼされたあと、1918年までハンガリー王国(マジャール人)の支配を受けた。

南スラヴ族

・南スラヴ族は、バルカン半島を南下したスラヴ民族で、長い間バルカン地域を支配したビザンツ帝国の文化やギリシア正教を受容した。

・南スラヴ族のセルビア人は、分裂状態にあったが、11世紀半ばにセルビア王国を成立させ、12世紀後半のマネニッチ朝のステファン=ネマーニャのもとビザンツ帝国から独立した。セルビア王国は、一時バルカン半島の大部分を支配したが、1389年のコソヴォの戦いオスマン帝国に敗れ、1459年にはオスマン帝国の支配下に置かれた。

・7世紀末にバルカン半島東南部に侵入したアジア系のブルガール人は、先住の南スラヴ族を破り、681年ブルガリア王国を建国した。ブルガール人は次第にスラヴ人と同化し、新たにスラヴ系のブルガリア人となっていった。9世紀以降ギリシア正教を受容し、第1次ブルガリア帝国(893~1018)第2次ブルガリア帝国(1187~1393)など栄えたが、14世紀末にオスマン帝国に敗れ支配下に置かれた。ブルガリア人は、その後のスラヴ文化の中心となるキリル文字を発明した。

・南スラヴ系のクロアティア人はフランク王国のカール大帝に服属したのちカトリックに改宗し、10~11世紀に最盛期となるが、11世紀末以降ハンガリーの属国となった。同じくスロヴェニア人もフランク王国に服属したあとカトリックに改宗し、その後イタリアのヴェネツィアやオーケストリアのハプスブルク朝の影響を受けた。

東スラヴ族

・東スラヴ族は、ロシア人を中心とし、東方ロシア地域に居住していたが、ルーシ(ノルマン人)の首領リューリクが862年にノヴゴロド公国を建国、その後ルーシの一族が南下しキエフ公国が成立した。ルーシは先住民のスラヴ人と同化しスラヴ化がすすみ、キエフ公国は黒海とバルト海を結ぶ交易ルートを支配した。大公ウラディミル1世の時代に、ビザンツ帝国皇帝バシレイオス2世の妹と結婚し、ビザンツ文化を受容し、ギリシア正教を国教とした。

・ビザンツ文化を取り入れ繁栄したキエフ公国も、13世紀にモンゴル帝国軍を率いたバトゥによって滅ぼされた。バトゥは南ロシアにキプチャク=ハン国(1243~1502)を建国し、ロシアは以後250年にわたりモンゴルの支配下に置かれた。ロシア(キエフ公国)はモンゴル(タタール)の過酷な支配を受けたことで発展が遅れ、こうした状況を「タタールくびき」と呼ぶ。

・その後14世紀になると、数あるロシア諸国の中からイヴァン1世がモンゴルに認められウラディミル大公の称号を獲得しモスクワ大公国を成立させた。モスクワ大公国は次第にモンゴル軍を撃破し、キプチャク=ハン国はその後ティムール帝国の攻撃を受け衰退した。領土内からは、シビル=ハン国・カザン=ハン国・クリム=ハン国・アストラ=ハン国などが独立していった。

・モスクワ大公国は、その後イヴァン3世(在位1462~1505)の治世にロシア諸国を統一し、1480年にモンゴル支配から自立した。イヴァン3世はビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、ローマ皇帝の称号の一つであったカエサル(ロシア語:ツァーリ)と帝国の紋章(双頭の鷲)を継承した。

・イヴァン3世のあと即位したイヴァン4世は雷帝と言われ、1547年ツァーリの称号を正式に使用し、親政を開始した。対外戦争を進め、シベリア経営や農奴制の強化など、専制政治を行い、16世紀のロシアはポーランドに代わり東欧の強国となっていった。

・ビザンツ帝国滅亡後、東方教会の一派であったロシア正教会がギリシア正教会にかわり中心的になっていった。

・東スラヴ系のウクライナ人は、13世紀にモンゴル人の侵入、14世紀にポーランドやリトアニアに分割され、18世紀末にロシアに併合された。
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・スラヴ民族の盛衰(ヤゲヴォ朝、セルビア王国、モスクワ大公国など) 受験対策問題 44

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『世界史B 教科書』 山川出版社
『世界史B 用語集』 山川出版社

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