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17_80 近代日本の形成とアジア / 開国・明治維新

八月十八日の政変から禁門の変までの流れ

著者名: タカスギー
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公武合体と討幕運動

開国なのか、それとも攘夷なのかとゆれる中で、朝廷と手を組んで政治をうまく動かそうとする動きが諸藩の中から出てきます。このことを公武合体と言います。外様ながら力のあった長州藩薩摩藩は、それぞれ公家と結びついて朝廷での発言力を高めようとしました。
八月十八日の政変

桂小五郎高杉晋作久坂玄端らの攘夷運動を受けて攘夷派となっていた長州藩は、結びつきのあった公家三条実美(さんじょうさねとみ)らとタッグを組んで、朝廷に攘夷をするよう働きかけていました。

これをよく思わないのは、薩摩藩会津藩といった公武合体をすすめる藩でした。この2つの藩は手を組んで、1863年の8月18日に長州藩を京都から追い出すことに成功します。この事件のことを八月十八日の政変と言います。長州藩は過激な攘夷派として明治維新まで煙たがられる存在に、また長州派だった三条実美たちは京都から追われることになりました。(三条実美は明治維新で政界に復帰してきます。)

ちなみに八月十八日の政変の直前に、尊皇攘夷派が大和国五条の代官所を襲撃する事件「天誅組の変」がおきています。浪士たちが武力をもって尊皇攘夷を成し遂げようとするようになったさきがけの事件です。
池田屋事件

京都から追い出された長州は面白くありません。京都で会合を開こうにも、新撰組が見回りをしていていつ襲われるかもわからない。だけど京都には返り咲きたい。そういう思いが長州藩を始め尊皇攘夷派にはあったのでしょう。京都の池田屋という料亭で会合をすすめていたところを新撰組に襲われてしまいます。池田屋事件です。
禁門の変

もう1度京都へ戻るタイミングを探していた長州藩は、池田屋事件を上洛する理由にして京都に戻ってきます。薩摩藩や会津藩のやり方に我慢ができなかったのでしょう。京都の皇居において薩摩・会津・桑名藩と戦いを始めます。これにも敗れた長州藩は、朝廷に刀を向けた朝敵とされ、幕府には長州を討伐せよという勅命(天皇の命令)がくだりました。この事件のことを禁門の変、または蛤御門の変と言います。
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『日本史用語集』 山川出版
『新日本史B 研究ノート 応用編』 啓隆社

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