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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / ウィーン体制

ウィーン体制とヨーロッパ

著者名: John Smith
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ナポレオンの敗北とウィーン会議

ナポレオンは、最大の決戦だったライプチヒの戦いに敗れ、1814年4月に退位し、エルバ島に幽閉されました。

1814年4月に、第1次パリ平和条約が結ばれ、フランス革命とその後のナポレオン戦争によって荒廃したヨーロッパの秩序を再建するため、1814年9月から1815年6月にかけて開かれた会議が、ウィーン会議です。

ウィーン会議の参加者

ウィーン会議には、各国から以下の代表が参加していました。

メッテルニヒ(オーストリア)

タレーラン(フランス)

カッスルレー(イギリス)

アレクサンドル1世(ロシア)

ハルデンベルク(プロイセン)


進まない会議


会議の司会を務めたのはオーストリアのメッテルニヒでしたが、戦後の領土拡大など大国の利害対立は深刻でした。

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(メッテルニヒ)

このように、一向に進まない会議の代わりに連日舞踏会が催された状況は、「会議は踊る、されどすすまず」と風刺されました。

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(風刺画:会議は踊る、されどすすまず)

正統主義と勢力均衡

このような状況のなか、フランスの代表タレーランが、正統主義という概念を提唱します。

これは、各国のフランス革命前の主権と領土を正統とし、ヨーロッパが革命前の状況に戻るべきだとする主張でした。

また、この他に、勢力均衡という考えも出てきます。一国が強力な力をもち、他国を支配しないように、ヨーロッパにおいて各国が均一な力を持つことで全体の均衡を保つというものです。5大国の勢力均衡をもって、ヨーロッパに秩序と平和をもたらそうという考えでした。

ウィーン議定書の締結

会議の結果、最終的に1815年6月にウィーン議定書の締結が行われます。正統主義と勢力均衡の原則をもって、フランス・スペイン・ナポリにブルボン朝が復活し、それぞれ以下の領土変更がなされました。

ロシア領

・フィンランド
・ベッサラビア
・ポーランド立憲王国

イギリス領

・セイロン島(オランダから)
・ケープ植民地(オランダから)
・マルタ島

オーストリア領

・ロンバルディア
・ヴェネツィア

オランダ立憲王国

・オーストリア領南ネーデルラント(現在のベルギー)

プロイセン

・ラインラント

ドイツ連邦の成立


スイスの永久中立


このように、メッテルニヒの主導のもと行われた保守反動の国際体制をウィーン体制と言います。
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『教科書 世界史B』 山川出版社
『世界史B 用語集』 山川出版社

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