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17_80 原始・古代の社会・文化と東アジア / 平安時代

保元の乱(後白河法皇vs崇徳上皇)と平治の乱(信西・平氏vs藤原信頼・源氏)が起こった理由

著者名: 早稲男
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平清盛と源頼朝

平安時代末期において、注目をされるのは平氏と源氏です。特に平清盛源頼朝はその筆頭でしょう。

しかしこの2人、実は同世代ではありません。
平清盛は1118年生まれで、源頼朝は1147年生まれ。清盛は、頼朝のお父さんである源義朝と同年代にあたります。

源義朝が飲んだ煮え湯を、見事に源頼朝がリベンジを達成した。この時代の平氏・源氏の争いをみてみましょう。
実は味方同士だった"保元の乱"

保元の乱とは、後白河天皇と崇徳上皇が争いを始めたことで、1156年に起こりました。このとき平清盛と源義朝はともに「後白河天皇」につきます。意外なことに、始めはいがみあっていたわけではないんですね。ちなみに源義朝のお父さんと弟は崇徳上皇側についたので、この戦いは、源義朝にとって親子/兄弟の戦いでもありました。

けっきょく保元の乱は、後白河法皇が勝ち、崇徳上皇は失脚をします。
"平治の乱"へ

もともと平氏と源氏は、白河法皇の時代に、上皇の身辺をまもる北面武士として重用されたのが勢力拡大のきっかけでした。中でも平氏は最大勢力で、保元の乱のあとにはさらにその勢力を拡大します。平氏は朝廷からも信頼があつい軍団でした。

時を同じくして、朝廷には2人の実力者がいました。1人は「信西」でもう1人は「藤原信頼」です。信西と結びつきが強かったのが平清盛、そして藤原信頼と結びつきが強かったのが源義朝でした。

信西と藤原信頼とでは信西のほうが力が強く、また源義朝は、保元の乱の後の源氏と平氏の待遇の違いに不満をもっていたことから、2人で共謀してクーデターを起こします。これが平治の乱です。1159年のことでした。

信西をたおすことに成功した2人ですが、平清盛には敗北します。これによって源義朝は死亡し、その子供であった源頼朝らは地方へと飛ばされてしまいます。これにより源氏の衰退・平氏の栄華が始まることになります。


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『新詳日本史図説』 浜島書店
『日本史用語集』 山川出版
『教科書 詳解 日本史B』 三省堂

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