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ギリシア哲学 ②
著作名: John Smith
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自然哲学の成立

ギリシア人の知的好奇心が増えるにつれ、彼らは人間を取り巻く自然の根源(アルケー)は何かという問いを持つようになります。

ギリシアの植民都市、イオニア地方ミレトスでは、この自然の根源を解明する自然哲学がおこりました。

この地方で活躍した自然科学者をミレトス学派というのですが、その祖にあたるのがタレスです。彼を筆頭に各地で学者が現れます。彼らの出身と万物の根源の定義を表にしてまとめてみます。

名前年代出身根源の定義
タレス前624頃~前546頃ミレトス
ピタゴラス前582頃~前497サモス島
ヘラクレイトス前544頃~?エフェソス
デモクリトス前460頃~前370イオニア原子(アトム)


ソフィストの登場

さて、自然哲学の探求が進む中、哲学の対象は次第に政治や法、社会制度へと向かうようになっていきます。

この背景には、大国ペルシアとの戦争を経て、アテネというポリスで民主政治が成立したことがありました。

民主政治とは、市民が政治の主導権を握って行われる政治のことで、要職を除く官職が抽選制になるなど、身分や財産にかかわらず政治参加が可能になりました。

その結果、さまざまな政治的知識や、多くの人々に自分の意見を伝える弁論の重要性が高まり、これらを職業的に教える教師が現れます。この教師をソフィストといいます。

ソフィストの代表はプロタゴラスゴルギアスです。彼らは普遍的な真理を否定し、世の中は相対的価値観で構成されていると説きました。

ソフィストは、次第に弁論に勝つことを目的に活動するようになり、次第に詭弁(事実に反する言論)を用いるようになり、民主政治は混乱していきます。  

このような状況の中、アテネスパルタという2大国がペロポネソス戦争を行い、戦いに敗れたアテネは更に荒廃するようになりました。

ソクラテスの登場

荒廃しつつあったアテネに、ソフィストを批判し真理の存在を肯定する哲学者が現れました。

彼こそ、賢者として名高いソクラテスです。ソクラテスは同時代に生きた知性の高い人々にさまざまな問答をしたあと、自分が知らないということを知っているという「無知の知」を認識し、これを最高の知であるとしました。

彼はこの問答法(助産術)をさまざまな人々に行い、「無知の知」を悟らせるように努めます。ソフィストによって否定された普遍的な真理が存在することを、彼は一般の人々に知らせたかったのです。

ソクラテスの考え

ソクラテスは、人間が求めるべきものを、人間の徳(アテレー)であると定義しました。

ソクラテスは、この徳を高めることは、知的な活動を重ねることで実現できると考えました。徳を積む事は、その徳が何なのかを知っていなければいけないということです。

この彼の考え方を、知徳合一と言います。

ソクラテスの死

多くの人々と対話を続け、問答法によって多くの人々に「無知の知」を伝えた結果、ソクラテスは知恵者としての評判を得ました。

しかし同時に、その対話は、当時の知識人に対する批判も多く含んでいたため、ソクラテスをよく思わない人の数も増えていきます。

このような状況の中で、ある為政者が、自分の政敵と関係のあるソクラテスを民衆裁判で告発しました。罪状は「国家の認める神々を認めず、新しい神を信じ、青年たちを腐敗・堕落させた」というものでした。

多くの弟子たちの説得にもかかわらず、彼は自己の信念を曲げず、最終的に死刑宣告を受けます。

彼自身の「ただ生きるのではなく、善く生きること」という人生の指針に基づいて行動した結果でした。

脱獄などの不正を行うよりも、不正を受けることを選んだソクラテスは、「悪法もまた法なり」という言葉を残し、毒薬を飲んで刑死します。

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(「ソクラテスの死」)

ソクラテスの死後、彼の意思を継いだ多くの弟子たちによって、ギリシア哲学は受け継がれていきます。

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