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【戦後恐慌、社会運動の高まり、張作霖爆殺事件】 受験日本史まとめ 70
著作名: Cogito
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戦後恐慌から金融恐慌へ

第一次世界大戦による好景気は、大戦後西欧列強の生産力回復に伴い終わりを告げ、日本の対外輸出は後退し、1919年(大正8年)には貿易収支が輸入超過となりました。1920年(大正9年)には株式市場が暴落し、紡績・製糸業の業績が不振となり、戦後恐慌がおこりました。

1923年(大正12年)9月には、関東大震災がおこり、企業の設備の多くが倒壊・焼失し、日本経済に更に大きな痛手を与えました。このとき、銀行手持ちの手形が数多く決裁不能となったため、政府は決裁不能の震災手形に対し日本銀行から震災手形割引損失補償令で特別融資を実施させこれに対応しましたが、1926年(昭和元年)になっても未決済の手形が多く残っていました。

憲政会の若槻礼次郎内閣は、震災手形処理を行うための法案を議会にはかりましたが、その過程でいくつかの銀行の不良貸付が判明し、経営状態の悪さが明るみに出たため、1927年(昭和2年)3月、銀行への取付け騒ぎがおこり、これが金融恐慌の引き金となりました。

同年4月には、台湾銀行・十五銀行など32もの銀行が休業し、金融恐慌は全国的に拡大しました。同時期、総合商社の鈴木商店に対する不良債権を抱えた台湾銀行を救済するため、若槻内閣が緊急勅令を発布しようとしたところ、枢密院の反対によりこれが否決されたため、内閣は総辞職しました。立憲政友会の田中義一が次の内閣を組織し、蔵相高橋是清が3週間のモラトリアム(支払猶予)を発して全国の銀行を一時休業させ、日銀が20億円にのぼる非常貸出を行い、この恐慌をなんとか鎮めることに成功しました。

慢性的不況が続く中、大企業はカルテル(企業連合)トラスト(企業合同)などの独占企業形態を取るようになり、三井・三菱・安田・住友などは各業界の企業部門を同系の資本のもとで経営するコンツェルンとなり多角経営を行い、四大財閥が成立していきました。また、大きな紡績会社は、中国に多くの工場を建設し、在華紡と呼ばれました。

銀行による産業界の支配も進み、銀行資本が産業資本と結びつき、金融資本を形成していきました。金融恐慌により痛手を受けた中小銀行は三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行など五大銀行に吸収され、大銀行を持つ財閥はより一層経済界への支配力を強めました。三井財閥は立憲政友会、三菱財閥は憲政会(のちの立憲民政党)と結び、政治資金を供与するなど、政界でも大きな発言力を持つようになっていきました。

社会主義運動の高まりと分裂

1922年(大正11年)に秘密裏に結成された日本共産党は、1924年(大正13年)に一度解党し、1926年(大正15年)に再建されました。労働運動の急進化に伴い、内部で右派と左派の対立が深まり、1925年(大正14年)日本労働総同盟が分裂し、急進派は日本労働組合総評議会を結成しました。この頃から合法的な無産政党を結成する動きがおこり、1925年(大正14年)には農民労働党が結成されました。しかし、ここでも内部対立がおこり、まもなく労働農民党・日本労農党・社会民衆党に分裂し(のち全国大衆党も結成)、労働組合・農民組合も3派に分裂しました。1928年(昭和3年)に普通選挙で代議士が当選し、初めて衆議院で議席を獲得しました。

共産党系の活動が活発になるにつれ、これを警戒した田中義一内閣は、1928年(昭和3年)に治安維持法を適用し、共産党系の活動家などを大量に検挙し(三・一五事件)、翌年にも大規模な検挙を行い(四・一六事件)、日本共産党は大きな打撃を受けました。

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