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【幕政の安定、元禄時代、徳川綱吉の政策、新井白石の政策】 受験日本史まとめ 41
著作名: Cogito
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幕政の安定と平和

1651年(慶安4年)の4月、徳川幕府第3代将軍の徳川家光が死去しました。これにより、子の徳川家綱(1641~80)が11歳で第4代将軍職を継ぎました。徳川家光までの幕府は、全大名を武力で支配し、将軍の命令や武家諸法度に違反した大名は断絶・改易・転封などの厳格な政策を取っていました。これを武断政治といいます。一方国際的には、中国の王朝のが滅亡し、新たに(1616~1912)が成立しました。

次第に、国内で数多く行われた改易や転封などの大名処分により、全国各地に主君を失った多くの浪人(牢人)が増え社会不安が広がりました。1651年(慶安4年)の7月には、牢人を率いた由井(比)正雪の乱(慶安の変)が起こりました。これを受けて、大老酒井忠勝・老中松平信綱・後見人の保科正之らの幕僚は、牢人発生を防止するため、お家断然の主因となっていた末期養子の禁止を緩和しました。これにより、当主死去の際50歳未満であれば、末期養子を入れてその家の存続が許可されました。成人した徳川家綱は文治政治への転換を目指し、1663年(寛文3年)に代がわりの武家諸法度を発布し、これに殉死の禁止を命じました。

殉死は多くの武士の家で見られたため、これを禁止したことにより、家臣はその主君個人ではなく主人の家に忠誠を尽くすことが求められるようになりました。こうして、主人の家は代々主人であり続け、家臣は代々主家に奉公するようになり、戦国期に見られた下剋上は無くなっていきました。また、徳川家綱は1664年(寛文4年)には領地宛行状を一斉発給し、将軍権力と幕府の安定を示すものとなりました。将軍と大名の関係が安定していく中、各地の藩でも、大名と家臣の安定が進みました。いくつかの藩では、以下のように儒学者を顧問にし、藩政のさらなる安定を目指すようになりました。

大名(藩)儒学者
保科正之(会津藩)山崎闇斎
池田光政(岡山藩)熊沢蕃山(花畠教場・閑谷学校)
徳川光圀(水戸藩)朱舜水(彰考館・大日本史編纂)
前田綱紀(加賀藩)木下順庵


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