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【関ヶ原の戦い、江戸幕府の成立】 受験日本史まとめ 37
著作名: Cogito
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関ヶ原の戦い

織田信長と同盟し、のちに豊臣秀吉と対立後に臣従した徳川家康は、1590年(天正18年)に関東に移封されて250万石の大名となり、江戸を拠点にし、江戸城の拡大や神田上水を引くなど町づくりをすすめ、領国経営を安定させる政策を進めました。

徳川家康は、豊臣政権の五大老の一人として重要な地位を占めるようになり、朝鮮半島への文禄・慶長の役に出兵せず力を蓄えました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、家康の権力は強力となり、次第に豊臣政権の五奉行(実務官僚)の一人石田三成と対立するようになりました。

対立が深まる中、石田三成は小西行長とともに五大老の一人毛利輝元を盟主とし、宇喜多秀家・島津義弘らの西国大名らとともに西軍として兵をあげました。これに対し徳川家康は、福島正則(1561~ 1624)・加藤清正(1562~1611)・黒田長政(1568~1623)らの東軍を組織し、石田三成と通じた上杉景勝との戦いのあと、1600年(慶長5年)9月に関ヶ原の戦いで東西両軍が激突しました。

東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋が徳川方に寝返ったことで東軍の大勝となりました。徳川家康はこの決戦後、小西行長と石田三成を京都で処刑し、宇喜多秀家を八丈島へ流し、西軍に属した諸大名のうち、90家・440万石を改易(領地没収)し、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封され、一方の東軍の将士には領地を与え、新たに28の譜代大名が生まれました。

徳川幕府の成立

1603年(慶長8年)、徳川家康は全大名への指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を受け、徳川幕府を開きました。豊臣秀頼と関白の座で競うことを避け、いち早く豊臣政権からの独立を果たそうという思惑がありました。征夷大将軍となった徳川家康は、全国の諸大名に対し江戸城と江戸の市街地造成の普請を命じ、1604年(慶長9年)に国単位に国絵図郷帳の作成を命じました。また、東海道・中山道などの主要街道を整備し、京都・伏見・大坂・堺・長崎などの都市を直轄地とし、石見の大森・但馬の生野・佐渡・伊豆の金・銀山も直轄にしました。

こうした全国統一政策が進む中、秀吉の子である豊臣秀頼は依然大坂城に住み、徳川家康に従いませんでした。1605年(慶長10年)、将軍職が徳川家の世襲であることを天下に示すため、家康は征夷大将軍を辞め、子の徳川秀忠(1579〜1632)に将軍宣下を受けさせました。駿府に引退した後も大御所として実権を握り続けた家康は、1614年(慶長19年)方広寺の大仏殿にあった巨大な鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」の一文があり、これが「家康」を二分しているとして方広寺鐘銘事件を起こし、その後大坂冬の陣で豊臣政権を攻めました。一旦和議を結んだものの、1615年(元和元年)に大坂夏の陣を戦い、5月に大坂城が陥落し、淀君(織田信長の妹・市と浅井長政の娘)と豊臣秀頼母子の自害により豊臣政権は崩壊しました。こうして、「元和偃武」という時代がはじまりました。

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