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【北条氏の台頭、承久の乱】 受験日本史まとめ 22
著作名: Cogito
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源頼朝の死と北条氏の台頭

鎌倉幕府を創設し、新しい政権のもと将軍独裁の政治をおこなった源頼朝でしたが、1199年(正治元年)の正月に53歳で死去しました。鎌倉幕府の歴史を記した『吾妻鏡』にも死因は記されておらず、源頼朝がなぜ亡くなったか詳しいことはわかっていません。

源頼朝の死後、その後を継いだのが嫡男の源頼家(1182~1204)でした。しかし、頼朝の死後三ヶ月たったのち、強力な権力が源頼家に集中することに反対した北条時政・大江広元・三善康信ら幕府の宿老たちは、源頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取り上げました。また、御家人の代表である13人の宿老の合議制とるようになり、源頼家の権力を制限し、話し合いによる政治運営を開始しました。

合議の中心となったのは、源頼朝の妻で頼家の母政子の実家北条氏でした。1199年の末には、源頼家が信頼していた梶原景時が鎌倉を追放され、翌年彼の一族は駿河国で襲撃を受け、合戦ののち滅ぼされてしまいました。駿河国の守護は北条時政であり、彼の司令が駿河の御家人を動かしたとされています。

1203年(建仁3年)、源頼家が重病になると、北条時政と政子は頼家の子一幡と弟千幡を後継者にし、強大な将軍の権限を二分割しようとしました。この動きに源頼家と一幡の外祖父だった比企能員が反発し、北条氏を討とうとしましたが、逆に誘殺され、武蔵国の豪族だった比企一族と一幡も殺害されました。源頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、千幡が将軍となり、源実朝と名乗るようになりました。

将軍となった源実朝を補佐するため、北条時政は大江広元と並び政所別当となり、政治の実権を握りました。この北条時政の地位は執権と呼ばれ、以後代々北条氏が世襲していきます。

1204年(元久元年)北条時政は、幽閉中の源頼家と殺害し、翌年には源実朝(千幡)を退け娘婿の平賀朝雅を将軍職につけようとしました。この陰謀の一環として幕府の重臣畠山重忠の一族が滅ぼされました。しかし、最終的にこの企ては北条政子の反対にあい、平賀朝雅は京都で殺害され、北条時政は引退し、その後を息子の北条義時が引き継ぎました。

1213年(建保元年)、北条義時は、源頼朝以来の功臣で侍所別当の職にあり、勢力を拡大していた和田義盛とその一族を滅ぼしました。この和田合戦は鎌倉を戦火に巻き込み、この戦い以後、北条義時は政所と侍所の別当を兼任し、執権の地位を不動のものにしました。

12歳で将軍となった源実朝(千幡)は、次第に政治をしっかりと行うようになり、政所を整備し、幕府の訴訟・政治制度を充実させていきました。北条氏の強い影響下にあった源実朝は、武芸よりも公家文化に親しみ、和歌や蹴鞠を愛好し、妻も貴族の坊門家から迎えました。また、禅僧栄西や宋人陳和卿とらと交わり、実際には果たせなかったものの、宋への渡航も目指しました。

1219年(承久元年)正月、源実朝は、源頼家の遺児公暁によって右大臣就任の式典の途中に鶴岡八幡宮で暗殺されました。最終的に公暁も殺害され、源氏の正統はわずか3代27年で断絶しました。

北条義時は親王を奉じて将軍に立てようと願いましたが、後鳥羽上皇(院政1198~1221)はこれを許しませんでした。そのため、源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経(1218~56)を鎌倉に迎え将軍にしました。これを摂家将軍または藤原将軍といいます。しかし、藤原頼経は当時まだ2歳の新生児で、実権は北条氏にありました。

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