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平家物語原文全集「大納言流罪 2」
著作名: 古典愛好家
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平家物語

大納言流罪

新大納言すでに死罪に行はるべかりし人の、流罪になだめられけることは、ひとへに小松殿のやうやうに申されけるによつてなり。この人いまだ中納言にておはしける時、美濃を知行し給ひしに、嘉応元年の冬、目代酒に飲酔て、葛に墨をぞ付けたりける。神人悪口に及ぶ間、

「さな言はせそ。」


とて、さむざむに陵轢す。さる程に、神人共数百人、目代が許へ乱入す。目代法にまかせて防ぎければ、神人等十余人うち殺さる。これによって、同じ年の十一月三日、山門の大衆、おびただしう蜂起して、国司成親卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友を禁獄せらるべき由奏聞す。すでに成親卿備中国へ流さるべきにて、西の七条まで出だされたりしを、君いかがおぼしめされけむ、中五日あつて召しかへさる。山門の大衆をびただしう呪詛すと聞こえしかども、同じき二年正月五日、右衛門督を兼じて、検非違使の別当になり給ふ。その時資方、兼雅卿超えられ給へり。資方卿はふるい人おとなにておはしき。兼雅卿は栄花の人なり。家嫡にて超えられ給ひけるこそ遺恨なれ。これは三条殿造進の賞なり。同じき三年四月十三日、正二位に叙せらる。その時は中御門中納言宗家卿超えられ給へり。安元元年十月廿七日、前中納言より権大納言にあがり給ふ。人あざけつて、

「山門の大衆にはのろはるべかりけるものを」


とぞ申しける。されども今はそのゆゑにや、かかる憂き目にあひ給へり。凡はは神明の罰も人の呪詛も、ときもあり遅きもあり、不同なる事共なり。

同じき三日、大物の浦へ京より御使ひありとてひしめきけり。新大納言、

「これにて失へとにや」


と聞き給へば、さはなくして、備前の児島へ流すべしとの御使ひなり。小松殿より御文あり。

「いかにもして、都近き片山里にをき奉らばやと、さしも申しつれども、叶はぬ事こそ世にある甲斐も候はね。さりながらも、御命ばかりは申しうけて候ふ。」


とて、難波が許へも、

「かまへてよくよく宮仕へ、御心にたがふな。」


と仰られつかはし、旅のよそほひこまごまと沙汰し送られたり。

つづき

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