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イタリア・ドイツの統一(カヴール、ガリバルディ、ビスマルクの活躍など) 受験対策問題 74
著作名: レキシントン
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イタリア・ドイツの統一で押さえておきたいポイント

※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。

イタリアの統一

・長い間分裂していたイタリアでは、次第にリソルジメント(再興)という統一運動が活発になっていった。ジェノヴァ出身の革命家マッツィーニが結成した「青年イタリア」は民衆運動を先導し、1849年ローマ共和国を樹立するが、フランス軍の干渉で倒された。

・こうした中、1720年に成立した北イタリアとサルディーニャ島からなるサルディーニャ王国が統一の中心となっていった。国王カルロ=アルベルトは二月革命の影響を受け、オーストリアに宣戦したが敗れ、退位した。その後、息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が即位し、カヴールを首相に起用し、統一を進めていった。

・カヴールは国際関係を重要視し、イタリア統一の援助を受けるため、フランスのナポレオン3世に接近した。1855年、サルディーニャはイギリスとフランスの要請をうけ、オスマン帝国側についてクリミア戦争に参戦した。この結果、サルディーニャの国際的な地位向上と、フランスとの関係が親密になった。

・1858年、カヴールとナポレオン3世はプロンビエールの密約を結び、サヴォイア・ニースの割譲と引き換えに、フランスがサルディーニャを支援することが決められた。

・1859年4月、フランスとサルディーニャのプロンビエール密約を知ったオーストリアから宣戦し、イタリア統一戦争がはじまった。援助を受けたサルディーニャは各地で連勝したが、隣国に強力な国家が誕生することを恐れたナポレオン3世は、単独でオーストリアと講和をむすんだため、サルディーニャはロンバルディアしか獲得できず、ヴェネツィアは依然としてオーストリアに残った。

・こうした中、カヴールは中部イタリアの併合をめざし、サヴォイア・ニースと引き換えに、ナポレオン3世の合意を取りつけ、1860年中部イタリアの統合が達成された。

・イタリア南部では、カヴールの支援を受けた青年イタリアのガリバルディ赤シャツ千人隊を率いてシチリアに上陸し、その後イタリア南部を占領した。この共和主義勢力の拡大にカヴールは策略を巡らせ、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世とガリバルディの会見を実現し、その際ガリバルディの占領地をサルディーニャ王に献上させた。こうして1861年、トリノを首都とし、ヴェネツィア・教皇領を除くイタリア王国が成立した。その後、普墺戦争時にヴェネツィア、普仏戦争時に教皇領が王国に編入した。しかし、トリエステや南チロルなど、「未回収のイタリア」という地域の問題が残った。(1919年のサン=ジェルマン条約でイタリア領に編入)

ドイツの統一

・1861年に、ヴィルヘルム1世がプロイセン王に即位すると、ユンカー出身のビスマルクを首相に任命した。ビスマルクは、鉄血政策という軍備拡張政策を推進し、プロイセンでは、クルップに代表される軍需産業が成立した。

・1864年には、オーストリアとともにデンマークと戦い、シュレスヴィヒホルシュタインを獲得した。1866年には、この州の管理をめぐりオーストリアと普墺戦争が起こるが、たった7週間でプロイセンの勝利に終わる。

・1867年には、ドイツ連邦が解体され、新たにプロイセン王を盟主とする北ドイツ連邦が発足した。

・一方オーストリアは、普墺戦争の敗戦と自国内のナショナリズム高揚を抑えるため、アウスグライヒという妥協政策でハンガリーに自治権を与え、新たにオーストリア=ハンガリー帝国が成立した。

・プロイセンが強国となっていく状況に対し、フランスのナポレオン3世は危機感を覚えていた。こうした中、スペイン継承問題が生じ、この時ビスマルクが電報の内容を改ざんし、エムス電報事件をおこした。フランス側はこの事件に反発、ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告し、普仏戦争(1870年7月〜1871年2月)がおこった。この戦争では、セダンの戦いに敗れたナポレオン3世が捕虜となり、フランス第二帝政は崩壊した。普仏戦争の最中、パリを包囲したビスマルクは、1871ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝の戴冠式を行い、ドイツ帝国(1871〜1918)の成立を宣言した。

・ドイツ帝国は連邦制国家となったが、立憲君主制は形式的なものにとどまった。南ドイツを中心とする中央党とは、文化闘争が起こったが、教皇ピウス9世の死により、こうした闘争もなくなった。

・1878年に皇帝狙撃事件が起こると、ビスマルクは、これを契機とし社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義者を弾圧するようになった。一方、労働者の保障制度として、疾病保険制度・災害保険法・養老保険法などを整備し、現在の世界の社会福祉政策の基礎を作った。

・普仏戦争のフランクフルト講和条約で、ドイツは50億フランの賠償金と、アルザス・ロレーヌを獲得した。そのため、フランスはドイツにとって最も警戒するべき国となり、フランスの孤立化を図るようになった。1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟が成立し、1887年にはドイツ・ロシア間で再保障条約が締結された。このフランスの孤立化を目指す国際体制を、ビスマルク体制という。

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