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哲学者列伝 ベーコン
著作名: サリー
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◯人物
 16~17世紀、イギリスの名門の家に生まれ活躍した哲学者・政治家。このベーコンをもって近代哲学の祖、イギリス経験論の祖とする考えもあるが、その思想には若干中世的な側面が残っているため、この説に反対する立場もある。とはいえ、ベーコンの思想が後の経験論に多大な影響を与えたことは否めない。権勢欲が強く23歳から政治に携わり、爵位を得ながら52歳で司法長官や大法官を務めるようになる。しかし、のちに汚職事件によって官職を負われ、学究的生活を送るようになる。ある雪の日に冷蔵技術の実験として、鶏の腹に雪を詰めていた時に引いた風邪がもとで死亡。ベーコンの情熱的な探究心は老いてもなお衰えることがなかったという、象徴的なエピソードである。ちなみに、トマス・ホッブズは一時期ベーコンの秘書を務めたことがある。
※ベーコンのフルネームはフランシス・ベーコンであるが、これと同姓同名の画家フランシス・ベーコンが存在し、しばしば混同されるが、画家のベーコンと哲学者のベーコンは別人であり、画家のベーコンは20世紀の人物である。

◯著書
『ノヴム=オルガヌム(新機関)』『ニュー=アトランティス』
「人間の知識と力は一致する、というのも、原因を知らなければ、結果を生み出すこともできないからだ。自然を支配するためには、自然に仕えなければならない。」(『ノヴム=オルガヌム』)

◯思想
 ベーコンによれば、ルネサンス以前の中世的な学問は、言葉上の空虚な論争に過ぎず、無意義なものである。よって真の学問はそのような問題から離れ、個々の具体的な事実を観察し、一般的・普遍的な法則を導いていかなければならない。このような手続きを経て我々は自然の力を利用し、人類の進歩に貢献する発明をすることができるのである。すなわち、我々は自然に服従することでその真の姿を明らかにすることによってこそ、自然を支配することができる。多くの経験に基く知識によって人間は力を得ることができるというベーコンの考えは、「知識は力なり(知は力なり)」という言葉によって簡潔に言い表されている。
※このベーコンの「知識は力なり」は、たびたび「知は力なり」と翻訳されることがあるが、日本語における「知」は経験的な知識以外にも、知恵や知識を得る力といった多くの意味が含まれている。ベーコンにおける「知」は端的に知識という意味であるため、ここでは「知識は力なり」を採用する。
 とはいえ、個々の具体的な事実は、偶然的に獲得されるのであってはならない。キリスト教に関するアンケートを日本で採るのとアメリカで採るのとでは全く異なる結果をもたらすのであり、事実を観察する際には様々な偏見や偶然、先入観などを排除しなければならない。ベーコンによれば、このように排除しなければならない偏見には四種類のものが存在するが、このような偏見はイドラ(幻影、偶像)と呼ばれる。
 一つ目は種族のイドラである。これは人間という種族が共通して持つ偏見であり、感覚や思い違いに基いている。例えば、我々は地球に暮らす限りはこの地球が動いているのではなく、天上の星々が動いているのだと錯覚してしまう(天動説)。しかし実際にはこの地球が太陽の周りを自転しながら公転しているのであるから、天動説は種族のイドラから生まれた錯覚だと言うことができる。また、自然の調和的な挙動を見て、あたかも自然が目的を持って運動していると考える解釈なども、自然の擬人化という人間の種族的な傾向から生まれる誤りである。
 二つ目は洞窟のイドラである。これは個人の性質、習慣、教育、環境などに由来する偏見である。これは洞窟という狭い世界の中から外を眺めるようなものであり、自然の光を遮られたまま自然を観察するようなものであるので、洞窟のイドラと呼ばれる。例えば、日本においてはクリスマスは寒く雪の降る季節のイベントであるが、オーストラリアにおいてはむしろ真夏のイベントである。他にも、時差を考慮せず昼時に海外の友人に電話したら、向こうは深夜で寝ていたところだった、というのはよく聞く話であろう。このような出来事は洞窟のイドラに陥っているが故に起こると言え、「井の中の蛙」とはまさにこの典型である。このイドラは、自分の経験と他人の経験を比較していくことによって排除することができる。
 三つ目は市場のイドラである。これは言語の使用に由来し、また言語が思考に及ぼす影響としての偏見や思い込みのことを指す。市場とは人と人が集まり交流する場であり、言語はそこでの活動上の要求によって作られたものなので、しばしば不具合を起こすことが有り得る。言語の理解力には個人差があり、また同じ文の解釈も人によって異なることがあるので、このような齟齬が起こるのである。例えば、誰かの発言が伝言ゲームのように独り歩きし、尾ひれがついて全く違う発言となるようなことは私たちの日常としてよくあることだが、こうした噂などは市場のイドラの典型例である。これは言語の解釈にとらわれず、事物そのものを観察することで排除することができる。
 四つ目は劇場のイドラである。これは伝統的・権威的な学説を盲信的に信じることから生まれる、学問上最も危険な先入観である。ベーコンによれば劇場とはこれまでの学問世界のことであり、これまで信じられてきた哲学説は、劇場の上で演じられる手品や芝居といった架空のものに過ぎない。事実、それまでカトリック教会という伝統・権威によって唱えられてきた天動説は、コペルニクスらによって覆されることとなるのである。このように劇場のイドラを脱するには、伝統的・権威的な学説を鵜呑みにせず、自己自ら観察し、それらの事実を元に考察しなければならない。
※余談だが、ベーコン自身もこれらのイドラを排除し切ることは出来なかったようだ。彼は当時現れ始めた地動説に対しては消極的な評価をしており、ケプラーの成果や数学を重要なものとして扱っていなかった。とはいえ、現実的に彼が生きた時代では未だ中世的な考えは一定の地位を占めており、このことがベーコンの功績を貶める出来事であるとは考えないほうが良いであろう。
 以上のように種々のイドラを取り除くということは、学問の消極的側面である。では自然に対して積極的に働きかけるには、どのようにすれば良いか。これこそが有名な帰納法である。すなわち、イドラを排した純粋な認識によって個々の事物を観察し、それぞれの中にある共通の法則・本質を見出すという方法である。ベーコンの意義は、これまで無意識的・無反省的に用いられてきた帰納法に詳細な反省を加えた上で、学問上この帰納法が持つ重要性を強調したところにある。すなわち、ある現象が起きる場合や起きない場合、どのような状況下においてその現象がどのように変化するのか、似た状況においてある現象が起きたり起きなかったりする場合、どこにそのような変化の原因があるのか、といった厳密な学問的方法としての帰納法を提言したのである。ちなみに、これに対してデカルトは演繹法を重視したが、このような観点からベーコンを経験論の祖とする考えもある。このようにしてこそ我々は学問を発展させ、自然を支配することができるのである。すなわちベーコンにおいて学問の目的は、自然を支配することによって自然を改造・利用し、人間の生活を向上・改善させることにある。

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