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ビザンツ帝国史 2 ~聖像禁止令、十字軍、オスマントルコによるコンスタンティノープル陥落~
著作名: エンリケ航海王子
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はじめに


前回、ビザンツ帝国の成立を中心に見てきましたが、今回は中・後期のビザンツ帝国を説明したいと思います。

レオン3世と聖像禁止令

中期ビザンツ帝国は、イサウリア朝から始まります。イサウリア朝は開祖であるレオン3世(位717~741)とその子コンスタンティノス5世の時代に基礎が固められました。

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(左:レオン3世 右:コンスタンティノス5世)

まず、小アジアに侵攻してきたイスラム勢力を押し戻し、国境の確立に成功します。これ以降、ビザンツとイスラム勢力は国境周辺での局地的な闘いになりました。

もう一つ重要なのが、聖像禁止令の発布です。
聖像禁止令というのは、726年に皇帝レオン3世により発布されたもので、イエスやマリアなど、キリスト教の聖人の聖像や聖画の作成を厳しく禁じたものです。

聖像禁止令を発布した理由は、以下だったと考えられています。

・ビザンツ帝国は常にイスラム教徒との接触をしていた国だったので、偶像崇拝を禁じているイスラム教に対抗するため。
・帝国の領土内で、大土地所領となっていた、聖像崇拝派の修道院を弾圧するため。

このように、聖像禁止令は、ビザンツ帝国のさまざまな側面を考慮して発布されたのですが、これが西ヨーロッパのローマ教会との関係を急激に悪化させてしまいます。

というのも、当時の西ヨーロッパで、ローマ教会がゲルマン人への布教のために聖像崇拝が必要不可欠だったのです。

つまり、ビザンツ帝国の聖像禁止令は、このローマ教会の布教方法を真っ向から否定するものだったのです。その後東西キリスト教会の間で聖像禁止令に関する大論争(聖像崇拝論争)がおこり、東西教会の対立は深まるばかりでした。

聖像禁止令自体は、女帝イレーネ(位797~802)によって撤回され、ビザンツ帝国でも聖像崇拝が復活しますが、1世紀近く東西教会は対立していたため、その後西ローマ教会はフランク王国に接近し、カールの西ローマ皇帝戴冠によってビザンツ皇帝から自立していきます。そして、その後1054年に東西教会は、西ローマ教会と、ギリシア正教会に完全に分裂することになるのです。

このような状況の中、ビザンツ帝国ではコンスタンティノープル総主教を宗教上の長にする一方で、その任命権を皇帝が有するという皇帝教皇主義が取られました。

西ヨーロッパのカール戴冠をしたレオ3世はこのレオン3世とは全くの別人です。よく間違えるので気をつけましょう。


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