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イギリス革命(ピューリタン革命、クロムウェル、名誉革命、責任内閣制の成立など) 受験対策問題 60
著作名: レキシントン
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イギリス市民革命で押さえておきたいポイント

※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。

ピューリタン革命

・17世紀のイギリスで起こったピューリタン革命名誉革命をイギリス革命という。これらは、市民階級資本主義の発達を阻害していた絶対王政を倒し、近代市民社会を作り上げたことから市民革命とよばれ、のちに続くアメリカ独立革命フランス革命など、封建的身分制の廃止と個人の自由を保障する社会をめざして行われた革命となった。

・14世紀以降、イギリスでは平民の地主層ジェントリ(郷紳)と農奴から解放され農地を所有するようになったヨーマン(独立自営農民)が力を持ち始め、彼らはピューリタン(清教徒)としてイギリスのカルヴァン派となっていった。ピューリタンは新しい階層として、政治的に絶対王政と、宗教的にカトリックやイギリス国教会と、社会的には伝統的な特権的大商業資本家と対立していった。

・イギリスではエリザベス1世が未婚のまま死去し、テューダー朝が途絶えたため、1603年スコットランド王ジェームズ6世をイギリスに迎えた。彼はイギリス王ジェームズ1世となりステュアート朝を開いた。ジェームズ1世は王権神授説を主張し、議会無視の政治や特権商人に独占権を与え、ピューリタンを弾圧した。

・ジェームズ1世の死後、息子のチャールズ1世が王位につくと、専制政治を更に強化した。こうした専制政治に対し、イギリス議会は1628権利の請願を提出し、議会に同意のない課税や不当逮捕に反対した。しかし、チャールズ1世は権利の請願を無視し、議会を解散、以後11年間にわたり専制政治を続けた。

・この間、1639年、カルヴァン派(長老派)の多かったスコットランドにイギリス国教会を強制したため、反乱が起こった。このスコットランドの反乱の鎮圧費用を捻出するため、チャールズ1世は1640年4月、11年ぶりに短期議会を招集した。短期議会は、議員が王に反発したため、3週間で解散させられた。その後、王は反乱軍に敗れたため、多額の賠償金を支払う必要が出てきた。この支払いのために、王は再び長期議会を招集した。

・長期議会では、貴族・特権商人の王党派と、ジェントリ・ヨーマンなど中小商工業者の議会派が対立し、1642ピューリタン革命(1642〜1649)がはじまった。はじめ王党派が優勢だった内乱は、次第に議会派が優勢となった。議会派は立憲君主制を主張した穏健派の長老派、中間の独立派、急進的な水平派にわかれた。独立派の中心指導者クロムウェルは、鉄騎隊を組織、その後新型軍を編成し、1645ネーズビーの戦いで王党派を破った。クロムウェルは、1649年1月に国王チャールズ1世を処刑し、共和制(コモンウェルス)を始めた。

・権力を握ったクロムウェルは、アイルランドやスコットランドの征服し、航海法(1651年)を制定した。航海法により、オランダの中継貿易を排除しようとしたため、第1次英蘭戦争がおこり、イギリスはこれに勝利した。1653年、終身の護国卿となったクロムウェルは、軍事独裁を続けた。17世紀後半以降、イギリスはさまざまな植民地を獲得し、資本の蓄積が進んだ。これをイギリス商業革命といい、その後の産業革命の原資が蓄積した時代となった。

王政復古と名誉革命

・クロムウェルは娯楽を禁止し、ピューリタニズムに基づく厳格な独裁政治を行ったため、民衆の不満が高まった。1658年にクロムウェルが死去すると、民衆の不満を察知した議会派(長老派)は、王党派と妥協して議会の尊重を条件として王政の復活を認め、チャールズ1世の子チャールズ2世が国王として即位した。これを王政復古という。

・チャールズ2世は、即位後再度カトリックと絶対王政の復活をはかった。こうした国王の専制政治に対し、議会はイギリス国教徒以外(非国教徒)が公職につくことを禁じた審査法(1673)や、不当な逮捕・投獄を禁じた人身保護法(1679)を制定し、国王に対抗した。

・こうした中、国教徒の聖職者や保守的な地主からなり、王権に寛容なトーリー派と、進歩的貴族や商工業者からなり、王権に批判的なホイッグ派が生まれた。トーリー派は、その後保守党に発展し、ホイッグ派は自由党に発展した。

・チャールズ2世が発作で死去後、弟のジェームズ2世が即位したが、この王もカトリックと絶対王政の復活を目指した。これをうけて、1688年に議会はジェームズ2世をフランスに追放し、王女メアリとその夫オランダ総督ウィレムを呼び寄せ、メアリ2世ウィリアム3世の共同統治を実現した。両王は議会が提出した王権に対する議会の優位が示された権利の宣言を承認後即位し、1689年12月、権利の章典として発布した。この一連の出来事を名誉革命(1688〜1689)といい、以後イギリスに立憲政治が確立した。

・メアリ2世のあと即位したアン女王の時代には、スコットランドを併合し、大=ブリテン王国(グレート=ブリテン)が成立した。しかし、女王の世継ぎは皆幼いまま亡くなったため、ステュアート朝は断然した。

責任内閣制の成立

・スチュアート朝断絶後、議会は新たにドイツのハノーヴァー選帝侯の一族から、ジョージ1世をイングランド王に迎え、ハノーヴァー朝が開かれた。ジョージ1世は英語が得意ではなく、ドイツ滞在が多かったため、王に代わって首相内閣が行政を担当し、ホイッグ党ウォルポール首相のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立した。こうして、「王は君臨すれども統治せず」という言葉のとおり、政党政治が始まり、イングランド銀行の設立やポルトガルとのメシュエン条約など、イギリスは重商主義政策を進めた。

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